此附近 平清盛終焉推定地 ”あつち死に”とはなんぞや?

悶絶躃地(もんぜつびゃくじ)して、遂にあつち死にぞし給ひける

高校生の時の担任が古典の先生でした。今の高校の授業がどうなっているかは知りませんが、当時は「現国(現代国語)」のほかに「古典」の時間があって、「古典」では「古文」と「漢文」を習いました。「共通一次(ふる~)では、みんなに満点を取ってもらう!」と一人意気込んで、ありがたくも土曜日の午後に強制的なクラス全員補習を勝手にするといった変に熱血な先生でした。土曜日は半ドンだったので、家に帰ってから昼飯食ってたのですが、この日は午後からクラブをする他のクラスの学生たちと学食で食べてました。

で、「古文」の時間には教科書に出てくる以外にもいろいろな古文に慣れ親しめたので、それはそれで良かったのですが、「共通一次」で良い点が取れるわけでもなく、この年になった今、「古文」をどれだけ覚えているかというと、そらまあ壊滅状態です。

ま、そんなことはどうでもいいですけど、今回は「平清盛」に関する記事です。「源氏」に関する記事はたくさん書きましたが、「平家」に関する記事は少ないなぁと以前から思ってました。で、「平家」というと、やはり筆頭は「平清盛」で、「古文」でいうと「平家物語」が一番に思い浮かびます。

「平家物語」といえば、「古典」の時間に冒頭の文書を暗記させられた記憶しかありません。皆さんも暗記させられませんでしたか? 例の「祇園精舎の鐘の声...云々カンヌン」というやつです。当然、熱血先生は「暗記」しろとのこと。それも「...ひとへに風 の前の塵に同じ。」までではなく、「間近くは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ、心も詞も及ばれね。」まで暗記しろとのこと。これは今でも「うろ覚え」ですが、なんとなく頭に残っています。

この平家物語の冒頭で出てくる「前太政大臣平朝臣清盛公」は、やりたい放題やった挙句「ひとへに風の前の塵に同じ。」だったわけですが、その最後はどうなったのか? ご存知でしょうか。

「古文」のときに、その下りは現代語訳して勉強したのですが、「変な死に方をした。」程度にしか記憶に残ってません。

んでもって、Webで調べた結果が、冒頭の下りで、

悶絶躃地(もんぜつびゃくじ)して、遂にあつち死にぞし給ひける

だそうです。

これが「平家物語 巻第六」に書かれている「平清盛」が亡くなる場面の描写です。

全然わかりませんね。

「あつち死に」という死に方をしてしまったということですが、「あつち死に」ってなんなんでしょうか? もうすっかり古文の知識は消え去っています。

仕方ないので、これもWebで調べました。

《「あつち」は、跳ね回る意の動詞「あつつ」の連用形からか》身もだえし、跳ね回って死ぬこと。
「悶絶躃地(もんぜつびゃくち)して、遂に―ぞし給ひける」〈平家・六〉

“コトバンク”より引用

おお、例文にまで出ているではないですか。

で、ついでに「悶絶躃地」(上のコトバンクでは”ち”になってますが常用的には”じ”ですね)も調べました。

苦しみもだえてころげまわること。
「王、此を聞きて―して」〈今昔・一・五〉

”コトバンク”より引用

ようするに、「苦しみ悶え、転げまわって死んでしまった。」の程度がはなはだしいバージョンを言っているようです。2回も身もだえすると重ねているので、物語の描写とはいえ、よっぽどのことだったのだと思われます。

それでは「なんで身もだえすることになったの?」とあたり前な疑問がわきますが、これもWebで調べてみると、平家物語には

「あた あた」とばかりなり。

と書かれています。「あた あた」? 現代語訳すると「熱い 熱い」とのことですが、平清盛は治承5年2月27日に頭痛から発病し、異常に体温が上昇したという記述です。

・清盛が寝ているところから4,5間の距離に近づけないほどの熱さ。

・比叡山から千手井の水を汲んできて石の浴槽に入れて清盛が入浴したところ水がわいて湯になった。

・筧の水を体にかけたが、石や鉄が焼けているかのように水をはじく勢いである。

・体にあたった水は火焔となって燃え上がり、黒煙が殿中に充満し炎は渦を巻いて燃え上がった。

ま、黒煙が出たり、炎が渦巻くのは「物語」なのでしょうけど、どうも急性発熱で、マラリヤ、インフルエンザ、髄膜炎、脳内出血、しょう紅熱などと憶測されています。2月末から3月にかけてのことなので、定説であったマラリヤは可能性が低いというのが近年の見方で、インフルエンザなら周りの者にも感染しているでしょうし、髄膜炎や脳内出血がおこったのではないかと考えられますね。

この「平清盛」が亡くなったのは「八条河原口」にあった「平盛国邸」であったと「中原師元」の日記「師元朝臣記」に記されています。

では、そのあたりに行ってみましょう。

当時は、平安京八条大路と鴨川の交差点の近くであって、「左京八条四坊十三町」という場所でした。現在は「崇仁市営住宅」となっているところの一角です。

此附近_平清盛終焉推定地 No2

「須原通り」をJR東海道線のガードをくぐって南に歩くとすぐに見えてきます。

此附近_平清盛終焉推定地 No3

ありました。「此附近 平清盛終焉推定地」の石票です。

此附近_平清盛終焉推定地 No4

「高倉天皇誕生地」でもあるんですね。

此附近_平清盛終焉推定地 No5

なんか、ちょっとゴミ捨て場のコンクリート塀のようですが...このあたりで「前太政大臣平朝臣清盛公」は「あた あた」と言いながら亡くなったんですね。ちなみに亡くなる前に妻の時子が思い残すことはないかと尋ねると「頼朝の首をはねて墓前に供えよ。」と言ったとか。いやはや何とも言えない執念ですね。

此附近_平清盛終焉推定地 No6

「平清盛」の遺骸は、「平家物語」によれば「六道珍皇寺」付近の火葬場で荼毘にふされ、
遺骨は「円実法眼」が摂津国「経の島」(平清盛が築いた大輪田泊にある人工島で現在の兵庫港近辺)の「八棟寺」に納めたとのことです。しかし平家の滅亡とともに「八棟寺」は破壊されてしまっています。

当時の貴族たちの間では清盛の死は「南都焼討」の仏罰が下ったという認識が強かったようで、「九条兼実」もその死が「仏罰によることは疑いない」と断言しています。

まぁ、太政大臣まで上り詰め、やりたい放題をして亡くなったんですから本望でしょうね。平家は「風の前の塵」になりましたが、武家政治はこの後江戸幕府が倒れるまで日本を支配することになります。

アクセス

  • 京都市バス「塩小路高倉」下車、徒歩8分

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