大久保利通旧邸跡 密談場所?

久々に京都市内散策

昨日の夕方、河原町今出川に所用があって、少し早い時間に職場を出て仕事を済まし、直帰することとなりました。

で、仕事が終わった後、もう5時廻ったし「ちょっと一服したろ。」ということで、この辺りで以前から尋ねてみたかった「大久保利通旧邸跡」を探しました。

場所は、「今出川通り」から「寺町通り」を少し下がって、何本目かの道を東に入ったところです。「寺町通り」を下ってきました。

大久保利通旧邸 No2

この通りのどこかのようですね。東に向かって歩きます。通りの名前は不明です。

大久保利通旧邸 No3

あれ、行き過ぎてしまったみたいですよ...今来た道を振り返って見ました。

大久保利通旧邸 No6

あ。これか。 西日が強力で見落としましたよ。

大久保利通旧邸 No4

「大久保利通舊邸」と刻まれています。6番目の文字は「旧」の旧字体「舊」の崩れた書体でしょうか。

大久保利通旧邸 No5

左側の面には「昭和二年七月建之 京都市教育会」と刻まれています。

薩摩藩士であった「大久保利通」は、慶応2年(1866年)正月から同年の6月までこの地に居を構えていたようです。討幕のために「岩倉具視」らとともに調停工作に奔走しました。

現在は普通の一軒家なんですけども、この家が建つ前にこの土地に住まわれていた方が、敷地内にあった茶室を保管されていたそうです。この茶室、実は「小松帯刀(たてわき)」が薩長同盟を結んだ邸宅である「御花畑」を手放すときに「大久保利通」が譲り受けたものだそうです。薩長連合の密談に使われ、またその後倒幕の密談に使われた歴史的価値のある茶室は「有待庵」と呼ばれていました。現在は京都市によって解体、保存されているようです。国史跡「岩倉具視幽棲(ゆうせい)旧宅」に移築するような話が出ていたようですけど、その後どうなってんのかな?

つーことで、まだ時間も速いので「寺町通り」を下って行きましょうか。

大久保利通旧邸 No7

少し下ると「京極小学校」です。

大久保利通旧邸 No8

もっと下ると「梨木神社」です。

大久保利通旧邸 No9

ちょっと前まで行ってみましょうか。

大久保利通旧邸 No10

もうすでに門は閉じられています。残念。

もう少し下ると「清和院御門」から御所に入れます。

大久保利通旧邸 No11

「清和院御門」から入ると、すぐに「土御門邸跡」です。

大久保利通旧邸 No12

「土御門邸跡」の前のベンチで一服。

今日は33度まで気温が上がったようで、梅雨というより夏を感じさせる天気でした。もう少し日が傾いてから御所の中を縦断して、「裁判所前」からバスに乗って帰りましょう。

日が傾いて、そよそよと涼しい風が吹いています。この時間になると人影はまばらで、ベンチで座っているのは私ぐらいです。今もお空は快晴、飛行機雲も短いので、まだ今夜もいい天気が続きそうですね。

アクセス

  • 京都市バス「河原町今出川」下車、徒歩5分

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