北垣国道銅像 近代京都の立役者

知事なればこそ

現在の京都市民の生活を支えるのは琵琶湖疎水です。これがないと京都の水道水は供給できません。鴨川や桂川があるので、水を汲水することもできるとは思いますが、やはり琵琶湖からの疎水は甚大な量の水を供給しています。

この琵琶湖疎水を計画して実行したのが第3代京都府知事の「北垣国道(きたがきくにみち)」です。彼の銅像がありますので訪ねてみます。

北垣国通銅像 No2

私が訪れるのは、仕事帰りが多いので、今回も夕闇が迫る時間となってしまいました。でもこのくらいの時間がとても好きなんですよ。ここは琵琶湖疎水の鴨東運河と言われるところで、通りの名前で行くと「冷泉(れいせん)通り」と呼ばれるところです。

北垣国通銅像 No3

冷泉通りの川端通り交差点から東の方に少し行ったところに、「水道疎水事務所」があります。「北垣国道銅像」は疎水事務所の中にあるのですが、対岸の冷泉通りから見えています。

北垣国通銅像 No4

この銅像は第2代目の銅像です。明治35年(1902年)に建てられた初代の銅像は第2次大戦中の金属類回収令によって撤去されてしまったそうです。

北垣国通銅像 No5

対岸なので、台座に書かれている文句が見えません。で、ここに書き写されています。

北垣国通銅像 No6

この第2代目の銅像は、平成2年(1990年)に琵琶湖疏水竣工100周年記念事業のひとつとして再建されました。土台だけは当初のままのものだそうです。その間ずっと土台だけが残ってたんですかね? ここは昭和時代にも何回か通っているんですけど、土台だけあったとしてもさすがに気づかなかったですよ。

北垣国通銅像 No7

第3代京都府知事として11年半に及ぶ長い任期を全うした「北垣国道」は天保7年(1836年)、但馬国養父郡(現在の養父市)の生まれです。

北垣国道は明治14年(1881年)に京都府知事に着任したのですが、当時の京都は東京奠都などにより東京や大阪などへの大都市への人口流出と産業衰退によって、都市としての活力が失われつつありました。

そんな中で北垣国道は、京都の勧業政策の一つとして滋賀県の琵琶湖から京都市内までの疏水建設によって、上水道、水運、灌漑、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画しました。

衰退していく京都を救う起死回生ともいうべき計画ですが、明治維新からたった十数年しかたっていないことを考えると、いきなりこんなことをぶち上げても、ただの誇大妄想にしか思えないのではないでしょうか。よくもまあ、財界の協力を取り付けたものだと思います。

琵琶湖疏水の設計は、当時の工部大学校(後の東京大学工学部)を卒業して京都府の御用掛に採用された「田辺朔郎」が進め、4年8ヶ月の大工事で完成させました。「田辺朔郎」は、なんと弱冠21歳で大工事である琵琶湖疎水の担当とり、完成までこぎつけています。ほんとに信じられない才能です。彼の銅像は蹴上の疎水公園にあります。この二人のコンビが、のちの京都の発展に大きくつながるんですね。でも、冷静に考えると、北垣国道の誇大妄想のような計画と、弱冠21歳の大学出たての若者が設計する琵琶湖疎水なんて言うのは、どう考えてもうまく行くとは思えませんよね。それだけ明治維新後の日本という国には時代の流れの「勢い」が味方したのでしょう。

琵琶湖疎水は明治23年(1890年)に竣工しますが、工事の途中で視察のためにアメリカ合衆国を訪れた「田辺朔郎」は、当初の疎水計画になかった水力発電所を取り入れたのです。

このことにより、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所が建設され、その後の明治28年(1895年)には、この電力を利用して、これまた日本初の路面電車となる「京都電気鉄道」が東洞院塩小路下ル(京都駅近く)から伏見下油掛(京橋)間の路線をを開業し、営業運転が始まることになりました。その2か月後には、七条から岡崎の勧業博覧会の会場にいたる路線も開業させて、世の中に路面電車を知らしめることとなります。

この路面電車の軌道敷が京都市内に張り巡らされることによって、京都の交通は大変進歩しました。

このように北垣国道が計画した琵琶湖疎水が完成したことにより、京都の町は一石二鳥どころか、三鳥も四鳥もの当たりを得て市民の生活水準が格段に向上し、産業、交通の発展を招き経済界も潤うこととなったのです。よくもまあ、こんなことを計画したものだと思います。京都にはこれほどの大事業は後にも先にもありません。

北垣国通銅像 No8

英断を下した「北垣国道」ですが、京都府知事時代には他にも記録が残されています。

当時大阪市にあった「第三高等中学校」が京都市内の吉田山に移ったのですが、その際の新しい校舎の開校式に「北垣国道」は京都府知事として出席しました。この学校は1894年に「第三高等学校」と改称した現在の京都大学の前身の学校です。

また「北垣国道」は剣術にたけた人でした。前任の第2代京都府知事であった「槇村正直」は府令によって剣術を禁止したのですが、「北垣国道」は知事に就任するとすぐに椹木町に「体育場」と称する大道場を設立して剣術を奨励しました。明治28年(1895年)には京都に「大日本武徳会」が設立され、北垣は大日本武徳会の役員を務めています。

京都府知事の次には「北海道庁長官」に就任し北の大地へと赴任していきます。

北垣国通銅像 No9

そんな北垣国道の銅像がある鴨東運河ですが、水道疎水事務所の近辺には、ちょっと休憩するスペースが設けられています。

北垣国通銅像 No10

当時の遺構か何かなのでしょうか。

北垣国通銅像 No11

こんなスペースもあります。

北垣国通銅像 No12

疎水事務所の敷地の中という、北垣国道にとって一番ふさわしい場所に銅像が建てられているんですね。もし彼が京都府知事になることがなく、琵琶湖疎水が建設されていなければ、現在の京都はもっと寂びれた、それこそ忘れ去られてしまうような街だったのかもしれません。本当によくやってくれたものだと思います。

このあたりは観光の方もほとんど来られないところなのですが、とても静かでゆったりとしたところです。機会があれば一度歩いてみてください。

アクセス

  • 京都市バス「丸太町京阪前」下車、徒歩8分

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