三條東殿遺址 平治の乱に滅ぶ

実はちょっと怖いところ

今回、京都市内に出てきた目的はリニューアルした「新風館」。どんななったんかなと興味があって見てきましたよ。(リニューアルオープンしたのは今年の6月11日、ちょっと出遅れかな、はは...)

で、「新風館」の中に入る前に、ちょっとだけ寄り道。(まだ寄り道するんかいな...)ま、寄り道つっても新風館の真ん前なんですよ。

三條東殿遺址 No2

ここは「新風館」の北側の「姉小路通り」です。長い間工事中でこの壁面に足場などが組まれていたので日の目を見ることがありませんでした。やっと工事が終わって近づくことができるようになったので写真を取りに来ましたよ。

三條東殿遺址 No3

北側の入り口です。私が「新風館」を訪れるときには、いつもここから入ってます。

んで、寄り道したかったのはこれ。

三條東殿遺址 No4

「三條東殿遺址」の駒札があります。実はここは「白河法皇」が造営した「三條東殿」があった場所、つまり「平治の乱」が始まった場所でもあります。

後白河上皇・上西門院(後白河の同母姉)の身柄を確保すると、三条殿に火をかけて逃げる者には容赦なく矢を射掛けた後白河上皇・上西門院(後白河の同母姉)の身柄を確保すると、三条殿に火をかけて逃げる者には容赦なく矢を射掛けた後白河上皇・上西門院(後白河の同母姉)の身柄を確保すると、三条殿に火をかけて逃げる者には容赦なく矢を射掛けた信西(しんぜい/藤原通憲)信西(しんぜい/藤原通憲)三條東殿遺址

現在の三條烏丸交差点の東北に位置する方四十丈(約一二○メートル)の地は、古の三條東殿の遺址にあたっている。
十一世紀の初め、ここには、伊豫守藤原済家の邸宅があり、それは子孫の宮内卿藤原家通に傳えられた。崇徳天皇の天治二年(一一二五)、白河法皇はこの地を得られ、ここに見事な殿舎を造営し、院の御所とされた。法皇の崩後鳥羽上皇は、三條東殿をやはり院の御所とされ、后の待賢門院と共に住まれ、それは長承元年(一一三二)七月の焼亡時まで続いた。
その後この地は皇子・後白河法皇の院の御所となった。
平治元年(一一五九)十二月九日の夜、源義朝は軍勢五百余をもって三條東殿を襲撃、法皇をここから連れさって幽閉し、かくして平治の乱が勃発した。
その時、武士と火焔にせめたてられた多数の官女が三條東殿の井戸に入って非業の死をとげたという。
このように三條東殿址は、院政時代における政治的文化的中心地のひとつであり、その点で永く記念されるべき遺跡である。

昭和四十一年二月   財団法人 古代学協会

この下の地面の所に石碑があるのですが、写真、ダメダメでしたので割愛。

「藤原信頼」と「源義朝」は「信西(しんぜい:藤原通憲)」一派を狙って「平治の乱」を起こします。「後白河上皇」と「上西門院(後白河の同母姉)」の身柄を確保した後、深夜なので「信西」一派の見分けがつかないと踏んで「三條東殿」に火をかけます。逃亡する者には容赦なく矢を射掛けたので行き場を失った官女の多くが井戸に身を投げたということです。実はとっても怖い場所だったんですね。

一時期、このBlogで六勝寺跡に関する記事をたくさん書きましたが、同じ栄華を誇った時代の御所跡(政治や文化の中心)です。「白河法皇」は天皇を超える権力を手に入れて、世をほしいままにしますが、「平治の乱」から後、武士の台頭とともに朝廷の権力は失われていきます。

と、寄り道に続く寄り道でしたが、次は、やっと本来の目的の「新風館」です。

アクセス

  • 京都市バス「烏丸御池」下車、徒歩3分

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