下御霊神社 復活 御香水

 「冤罪」…

京都市中京区にある「下御霊神社」に行きました。先日訪れた、「上御霊神社」と対を成す神社です。「八所御霊」を祀る神社で、

当社は平安時代に冤罪を被り亡くなられた貴人の方々の怨霊を御霊(ごりょう)として、その当時からお祀りしてまいりました神社です
疫病災厄を退散し、朝廷と都をお守りする神社として崇敬されてきました

「下御霊神社」のホームページから

のっけから、恐ろしいことが書かれている「下御霊神社」のホームページですが、祀られている、御祭神がみなそういう神々なのです。

太古の昔から、政治の場面では、「冤罪」や「讒訴(ざんそ)」は常套手段のようですから致し方ないのかもしれませんが、

冤罪、讒訴 ⇒ 疫病、天変地異 ⇒ 祟り ⇒ 神頼み

という構図は、歴史の中にはたくさん出てきますね。一番有名なのは、やはり「菅原道真公」なのですが、もうじき梅の季節なので、その時に北野天満宮を訪れて、話を書こうと思います。

さて、平安時代は貴族文化が隆盛した大変華やかな時代でしたが、一方では災害や疫病の流行が繰り返し起こった不安な時代でもありました。医療や科学が発達していない時代においては、次々に起こる災いに対してなす術が何もなく、官民を問わずその恐怖に畏れおののき、ただただ神にすがるしか方法がなかったのでしょう。

当時の人々はその災いの原因を貴人の「怨霊」がもたらすものと考え、「御霊(ごりょう)」としてお祀りし、その霊をお慰めすることによって、災いから守っていただこうと「御霊会(ごりょうえ)」を行うようになりました。

記録などによると、「神泉苑」でも「御霊会」が行われ、庶民が自由に出入りできたとのことで、「神泉苑御霊会」から「祇園御霊会」となり、現在の京都三大祭りの一つである「祇園祭」のもととなりました。この貞観五年(863年)「神泉苑」で行われていた「御霊会」で祀られた

崇道天皇(桓武天皇の皇太子、早良親王)
伊予親王(桓武天皇の皇子)
藤原吉子(伊予親王の母)
藤原広嗣(藤原宇合の長子)
橘逸勢(但馬権守)
文屋宮田麻呂(筑前守)

の六座に、吉備聖霊(吉備真備公ではなく六座の和魂)、火雷天神( 菅原道真公ではなく六座の荒魂)の二座を加えた八座をお祀りして「八所御霊」としています。

「下御霊神社」は「寺町通り」の「丸太町」を下ったところにあります。「京都御苑」の少し南です。

下御霊神社 No2

参詣した時には、京都はまだ「松の内」だったので、紅白幕で飾られています。

下御霊神社 No3

正面から。

下御霊神社 No4

「府社 下御霊神社」の石碑です。

下御霊神社 No5

「駒札」です。

下御霊神社 No6

朝早くなので、初詣の方もまだちらほらでした。

下御霊神社 No7

下御霊神社の社紋は「花沢瀉(はなおもだか)に水にみず」です。

下御霊神社 No8

それでは境内へ入りましょう。

下御霊神社 No9

「拝殿」です。

下御霊神社 No10

「手水舎」です。昔は境内に「感応水(かんのうすい)」と呼ばれる井戸がありましたが、現在はありません。しかし、平成3年、この手水舎の井戸を復活させたところ、おいしいとのことで、遠くからもこの御香水を汲みに来る方もいらっしゃるそうです。

江戸時代の明和七年(1770年)の秋は京の市中が旱魃(かんばつ)に見舞われました。
当時の神主(第三十八代)出雲路定直が夢のお告げにより境内の一か所を掘らせたところ、清らかな水が沸き出でて涸(か)れることなく、万人に汲ませることができ、「感応(かんのう)水」と名付けられたとのことです。
今はこの井戸の痕跡は全くありませんが、現在の井戸水も同じ水脈であります。
皆様とともに大事にしていきたいと存じます。

「下御霊神社」のホームページから

下御霊神社 No11

「拝殿」を通して「本殿」を望みます。

下御霊神社 No12

「拝殿」と「本殿」の間の距離が短いので、コンデジでは入り切りませんね。

下御霊神社 No13

どっしりとした屋根が乗ってます。

下御霊神社 No14

「下御霊神社」のホームページにも載っていた「笑う狛犬?」の絵馬です。戌年ですから初詣にはちょうど良い絵馬ですね。福が来そうなユーモラスな絵になっています。

境内

境内を見てみます。

下御霊神社 No15

「稲荷大神」です。

下御霊神社 No16

境内の一番北側にあります。

下御霊神社 No17

「猿田彦大神」「垂加社」「柿本大神」です。

下御霊神社 No18

「垂加社」が祀られています。「垂加社」とは「垂加神道」を開いた「山崎闇斎」を祀った神社です。江戸時代前期の神道家、思想家である「山崎闇斎」は京都で生まれ、幼くして比叡山に入り、ついで妙心寺に移って僧となりました。その後、土佐南学派の谷時中に朱子学を学び、寛永19年(1642年)に25歳で儒学者となり、京都市上京区に「闇斎塾」を開きます。また、「吉川神道」の創始者である「吉川惟足」に学んで、神道研究にも取り組むようになり、従来の神道と儒教を統合して(神儒融合)、垂加神道を開いきました。
闇斎の思想は君臣の関係を重視したもので、幕末の「尊王攘夷思想」に大きな影響を与えました。

「山崎闇斎」は弟子達に向かって「今、中国が孔子や孟子を総大将として日本に攻めてきたらどうするか。」と問います。返答に窮した弟子達に対して「そういう時は、当然孔子や孟子と戦って、あるいは斬り、あるいは生け捕りにするのだ。それが孔子や孟子の教えだ。」と説きました。

「山崎闇斎」の墓所は、京都市左京区黒谷町の金戒光明寺にあります。

下御霊神社 No20

「山崎闇斎」を解説する案内書き。ちょっと反射でうまく撮れません。偏光フィルターがいりますね。そろそろ購入しないと...

下御霊神社 No19

旧いですね。歴史を感じます。

下御霊神社 No21

その横に、大きな木の切り株が残っていました。御神木だったのでしょうか。そういえば、「下御霊神社」はもっと木が多くて、森とは言いませんが、林ぐらいの感じがしていたのですが...だいぶんと木がなくなって、周りに開けた感じになりました。

下御霊神社 No22

NHKの車両が境内に停められています。今日、中継でもあるのでしょうか。天気も良くてなかなか良いお正月の風景が放送できそうですね。

下御霊神社 No23

その横にも大きな木が生えています。「百日紅」の木でしょうか。

下御霊神社 No24

その木の根元には、これまた立派で古い石碑があるにですが、いかんせん、難しくて読めません。

下御霊神社 No25

「宗像社」です。他にも末社があるのですが、南門の周りを工事中で、工事車両があったりして写真がうまく撮れませんでした。

「御霊会」から始まった「下御霊神社」ですが、せっかくの戌年ですから、「笑う狛犬」に会いに来てください。

アクセス

  • 京都市バス「河原町丸太町」下車、徒歩4分

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする