明治維新の原動力
先日、烏丸通りを歩いていると「藤井右門(ふじいうもん)宅跡」という駒札を見つけました。知らない名前だったので、後で調べてみると、なんと幕末の100年前に尊王思想を展開した先駆者でした。
藤井吉太郎(後に右門)は江戸時代中期の尊王論者です。父の藤井宗茂(むねしげ)は赤穂藩浅野氏の家臣で、大石良雄に次ぐ上席家老であり松の廊下の刃傷事件があった際には江戸にいました。宗茂は仇討ちの義盟への参加を求められるも加わらず、越中国射水郡小杉村に身を寄せます。そこで藤井左門と称し、大手崎村の豪農赤井屋九郎平の娘を妻に娶り、その間に二男一女をもうけました。その長男が藤井吉太郎です。
享保20年(1735年)吉太郎は郷里を出奔して上洛し、諸大夫藤井忠義の養子となり直明(なおあき)と改め家督を継ぎました。京都では竹内式部に入門し儒学や神道を学び、学を修めて八十宮(やそみや)内親王の家司(けいし)となって皇学所教授をかね、公卿に尊王論を説きました。宝暦8年(1758年)の「宝暦事件」で竹内式部が捕らえられると京都を逃れ、江戸へ出て右門と名乗ります。そして山県大弐の塾に入門し、その家に身を寄せます。大弐の所説に心酔して尊皇斥覇を唱え、町医者の宮沢準曹らと時事を談論しましたが、明和3年(1766年)我が身に災いがおよぶのを怖れた準曹の訴えで、山県大弐、竹内式部とともに謀反人として捕らえられ、「明和事件」の首謀者とされてしまいます。翌明和4年(1767年)『兵書雑談』の内容に不敬があったとして鈴ヶ森で打首・獄門の刑に処せられてしまいました。
この石碑があったところが、藤井右門が上洛してから「宝暦事件」に連座して江戸に亡命するまでの約20年間を過ごしたところです。この旧宅は近くに薩摩藩邸(烏丸通りの向かいの現同志社大学)があったので,志士たちの会議連絡場所としても活用されました。そして邸宅は大正11年(1922年)区画整理のため山科毘沙門堂裏の春秋山荘に移築されました。
この顕彰碑は大正12年(1923年)に建てられたものです。上の画像の中央右の部分に四角が見えますが、石碑が建立されて後に7文字改変されたそうです。
直明のひ孫である藤井多門は、岩倉具視と親交を深めます。このことから直明の思想が明らかになり、明治維新後に正四位が贈られました。
宅跡碑です。だいぶんと字が薄くなってきて読みづらくなってます。
建物の一角をへこますような形で石碑を残してますね。その心配りがとてもありがたいです。
明治維新はいきなり幕末に起こったように感じますが、脈々と流れる思想が原動力となり、一気に開花したのだと思います。
アクセス
- 京都市営地下鉄「今出川」下車、徒歩1分