防衛線
毎日暑いですね。今日は京都の巨大な史跡を紹介しましょう。
京都市内には何か所か残っている「御土居(おどい)」の跡です。跡と言ってもそのものなので、御土居の一部ということになりますかね。
「御土居」は豊臣秀吉が京都防衛のために築いた土塁のことです。土塁といってもお城を囲むのではなくて、京都そのものを囲むという大規模なものでした。周囲が22.5㎞ほどもあるという、日本史上前代未聞の長さです。
この「御土居」、太閤秀吉にとっては防衛線だったのですが、京都民にとっては「洛中」と「洛外」を分ける境界線でした。「洛外」には人が住んでいないと言うことではないのですが、京都の町の栄えている部分が「御土居」の中の「洛中」に当るところです。
ただし、室町時代から戦国時代にかけての京都は「応仁の乱」で荒廃した後なので、すべてがきらびやかな文化的都市ではなくて、どちらかと言えば荒れてしまって魑魅魍魎が出そうなところがたくさんある玉石混交の都市だったようです。なんかこの方がわくわくしますね。
太閤秀吉は、荒れてしまった京都を強引に再開発させようとして、天正の地割や寺院を東の方に集めるなどやりたい放題をしました。その時の構想の基盤となったのが「御土居」です。
土塁と言っても高さが数メートルもあるもので、総延長22.5㎞もの土塁を建設するのにどこから土や資材を集めたのでしょうか。とっても大がかりな工事で、資金も相当に掛かったと思われます。
天正19年(1591年)に築かれた「御土居」ですが、太閤秀吉亡き後は徐々に崩れていき、あまり多くは残っていません。現在は9か所が史跡に指定されています。史跡に指定されているところ以外にも「痕跡」ならばあちこちに残っています。
今回は史跡に指定されている「玄琢下」にある「大宮の御土居」を見に行きます。
東の方から歩いてくると、フェンスに囲まれた「御土居」がいきなり出現します。史跡に指定される前は、あまり人に見向きもされない土の山だったに違いありません。地元民にとっても、「昔からそこにあるもの」であり、太閤秀吉が京都防衛のために作ったのか知らないけど、現代では「京都防衛なんて意味をなさない」から、見向きもされない土の山だったに違いありません。近所のひとの散歩コースぐらいの扱いだったことでしょう。
でも「史跡」となった瞬間、別格扱いになり現在はおいそれと中には入れません。「史跡」の文字もまぶしい「御土居」の石票です。この日は施設管理の方々が中に入って作業をされていたようです。
「史跡 お土居」の説明書きです。けっこう古くなってきてますね。
近くで見るとただの土盛りなんですけど...
離れて見ると、やっぱり規模がおっきいですよね。
中はきれいに管理されています。防衛用の土塁なので掘り返したところで何にも出てはこないでしょうけど、なんか埋まっていないかな? と、気にはなります。
他にも史跡に指定された御土居は8つあるので、近くを通った折には紹介しましょう。
アクセス
- 京都市バス「玄琢下」下車、徒歩2分