「竹内式部寓居址の石票」の跡

 バリアフリー化?

なんともまぁ、回りくどい表題を付けましたが、行ってみると字面のごとくの結果になってましたよ。

なんのこっちゃ。

いやね、昨日アップした「藤井右門」の師でもある、「竹内式部」について調べていたら、「竹内式部寓居址」というのを見つけたんですよ。

場所は丸太町通りの麩屋町角。通勤の帰り道なので、途中で市バスを降りて行ってきました。

さて、昨日の「藤井右門宅跡碑」の中でも登場した、「竹内式部(敬持:たかもち)」ですが、彼は江戸時代中期の神道家、尊王論者です。享保13年(1728年)頃に越後国から上京して「徳大寺家」に仕え、「山崎闇斎」門下の松岡仲良・玉木正英らに師事して、儒学・垂加神道を学びました。私塾を開き、若い公家たちに大義名分を重んじる垂加神道の教義を教授したことから、公卿たちの間に尊王思想を目覚めさせることとなります。しかし、朝幕関係の悪化を憂慮した時の関白「一条道香」は、式部を白川・吉田家を差し置いて公家に神書を講じた等の理由で「京都所司代」に告訴し、宝暦8年(1758年)の「宝暦事件」で、式部は京都所司代の審理を受け中心人物として重追放の処分を受けて京都を追放されてしまいます。その後、明和4年(1767年)「山県大弐」らによる明和事件の際、関与を疑われて連坐して八丈島に流罪となり、送られる途中に三宅島で病没しました。三宅島にお墓も残っています。

今から訪れるのは、「竹内式部」が京都で住んでいた邸宅の跡を示す石票です。

竹内式部寓居址 No2

丸太町通りの麩屋町西南角と示されていましたが…見当たりません。

京都市のホームページから写真を拝借してきました。

竹内式部寓居址 No7

竹内式部寓居址 No8

この写真が撮影された、平成14年(2002年)には存在していたのですが。

資料から引用すると

【建立年】 大正5年(1916年)
【建立者】 (京都市教育会)
寸 法 高87×幅18×奥行18cm
【碑 文】[北] 此南竹内式部寓(以下埋没「居址」)
[東] 大正五年五月建之 京都市(以下埋没「教育会」)
[南] 寄附者 荒川益(以下埋没「次郎」)

となっていたそうです。

竹内式部寓居址 No3

右の通りが「丸太町通り」。

竹内式部寓居址 No4

左の通りが「麩屋町通り」です。

竹内式部寓居址 No5

で、見つけましたよ、痕跡。

竹内式部寓居址 No6

ああ無残。じゃまやから切ってしまったんでしょうね。歩行者優先。バリアフリー化の結果でしょうか。多分これが目的の「竹内式部寓居址の石票」の跡だと思われます。

掘り返してみて、「居址」、「教育会」、「次郎」って出てきたら、そのものだったという証ですよね。どこぞの番組のように池の水ぜんぶ抜くがごとく、この石票も掘り返してみたい衝動にかられますよ。

尊王思想と言えば幕末ばかりが取り上げられますが、その100年以上前に尊王思想の種をまいた先駆者たちがいた事実はもっと取り上げられても良いのではないでしょうか。熱い思いで尊王論を説き、関白に横やりを入れられて重追放となり、連座して島流しになる途中で病に倒れて没したが、その熱き思いは脈々と受け継がれて、100年後に討幕のうねりの源流となった。これって、判官贔屓の日本人には受けませんかね。大河ドラマなんかにはどうでしょうかね。

アクセス

  • 京都市バス「裁判所前」下車、徒歩2分

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