皇太子殿下御降誕記念 京都市左京区岡崎

皇太子殿下御降誕記念 天壌無窮

歴史あるまち京都にはいろいろな史跡や旧跡、神社仏閣、建築物、モニュメントが存在しますが、今回紹介する石碑を知っている人はほんとに少ないと思います。

石碑が建てられている場所は岡崎公園の中のテニスコートの端です。岡崎通りに面した「出入り口5」の近くにあります。

この岡崎の地は、応仁の乱以降は衰退してしまって、かつては六勝寺が建立されていた面影もない土地となってしまっていました。しかし「平安遷都千百年紀念祭」にあわせて,明治28年(1895年)の「第四回内国勧業博覧会」がここ岡崎一帯で開かれることなり、それ以降は京都における文化の中心地となったところです。

皇太子殿下御降誕記念 No2

岡崎公園テニスコートの南東角です。今日も一日良い天気でした。きれいな夕焼けになりそうです。この南東角から少し北に行けば、道沿いの歩道からテニスコートに降りる出入り口があります。その出入り口のすぐ横に今回の記念碑が建ってます。

皇太子殿下御降誕記念 No3

この記念碑のことをWebで探しても情報がほとんどないのでよくわからないのですが、今上天皇(平成天皇)が御降誕された時の記念碑でしょうから、昭和8年(1933年)に建てられていると思います。「皇太子殿下御降誕記念 天壌無窮」と書かれています。

来年、今上天皇が譲位されて、元号も新しくなりますね。今度はどんな元号になるのでしょうか。元号は不要だという方もいらっしゃるようですけど、私は元号を聞くと、その元号の時代のイメージが浮かんできて、それによって「日本の歴史の中ではこの時代だな、前後の元号のイメージから、このあたりの時代の変化というのはこんな感じなのかな。」と思い出すので、元号は存続していってほしいと思います。元号が変わると、日々の書類を訂正しなければならないし、パソコンなどの情報入力も大がかりな変更が必要であるし、とっても大変なことではあると思いますが、古くから伝わる世界に誇れる日本の文化だと思うので、ぜひとも存続させてほしいものです。

皇太子殿下御降誕記念 No4

真正面からの写真ですが、石碑の上にお月さんが映っているのが見えるでしょうか。

「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」とは現代ではあまり使われない言葉ですが、「天地とともに永遠に極まりなく続くさま」を表すそうです。日本という国が平和で永久に続くことを願ってのことだと、私は解釈してます。

皇太子殿下御降誕記念 No5

夕陽を浴びて赤みがかっています。美しい光景です。どっしりとした、近代化日本の黎明期を思わせるような記念碑です。円柱部分の表面の少しざらざらとしたような表面加工が当時の建築の様式を表していると思います。そういえばこういう表面の建物って昔はたくさんあったのですが、今はなかなか見られませんね。古い学校や公園に残っているものに時々出会います。

わざわざ見に行くこともないような旧跡のように思えますが、このような旧跡は京都市内にたくさんあります。その多くがガイドブックやWebに載ることもなく、人々から忘れられてしまっています。でも石碑の方は、それが与えられた使命であるかのように、ひっそりと人々の日常を見守っています。

アクセス

  • 京都市バス「動物園前」下車、徒歩1分

岡崎公園テニスコート東側にある出入り口5のすぐ近く

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コメント

  1. みゆき より:

    はじめまして。こちらの記事を見かけてお聞きしたい事があります。自宅に「皇太子誕生記念碑 昭和9年」と記念碑がたっています。これは明治に尋常小学校この地にあり小学校が建てたものです。
    このような記念碑は残して置くべきだと思いますか?率直な意見を頂けたらとても嬉しいです。

    • Jun@Kyoto より:

      みゆきさん おはようございます。コメントありがとうございます。
      私は法律には詳しくないのでもともと尋常小学校があった土地をご所有とのことであれば、その碑ごと所有権を取得されているということでありましょうから、残しておくかどうかは、みゆきさん に決定権があるとしたうえでの前提です。
      私は邪魔になるなら処分していいと思います。そこに住む人の生活が第一ですから。神様やないから祟りとかもないでしょうし。
      京都市内でも道路上の邪魔な石碑なんかは、有無を言わさずぶった切られていますよ。
      でも私に限れば、自宅に古い石碑とかがあれば、喜んで保存することと思います。子や孫に「昔はなぁ、国や行政がこんなことしてたんやで。間違ったら戦争突入やで。」と知ったかぶりで教え込んでいることでしょう。でも、将来、子や孫が「邪魔やなぁ、ほかしたろ。」となったらなったでそれも良いかと思っています。
      「物」というのはそれをどう利用するかが重要なのではないでしょうか。世の中が変われば不要となったものは、まさに「不要」でしかないと思います。
      なんか、回答になっているのかどうかよくわかりませんが、私の思いです。          Jun@Kyoto