矢取地蔵尊 空海を助ける

もうじき梅雨入りですが...

古来の伝説には、ライバル同士の「対決もの」がよくあります。それも、たいていの話が、一方が良い者で、もう一方が悪者という勧善懲悪の構図で語られています。京都で言えば、「牛若丸に対して武蔵坊弁慶」、「安倍晴明に対して蘆屋道満こと道摩法師」そして今回の矢取地蔵尊の話では「空海に対して守敏」という対立関係です。話を聞く方も、対決物の方がわくわくしますね。

「空海」と言えば誰もが知っている、あの「空海」ですが、「守敏」って誰や? とお思いの方が多いでしょう。

あの「空海」という言い方もわかりずらいでしょうか。真言宗の開祖である「弘法大師」です。高野山に金剛峯寺等を開いた人です。京都で言えば東寺の主とでも言いましょうか。嵯峨天皇から「東寺」を下賜されています。日本史の教科書には絶対に名前が出てきますね。

それに対して「守敏」は真言密教にも通じる平安時代初期の僧です。嵯峨天皇から「西寺」を下賜されています。(『今昔物語集』に出てくる嵯峨天皇は茶目っ気のある人物として描かれていることからすると、空海と守敏の対立を煽って面白がっていたようですね。)

もうここでいきなり東寺と西寺のバトル勃発という構図です。場所的にも東寺と西寺は「羅城門」を挟んで東と西にあってとても近く、どちらも世間の信仰を集めようと張り合っていたものだと考えられます。

折しも、干ばつが続く天長元年(824年)、時の天皇であった淳和天皇は西寺の守敏僧都と東寺の空海に対して祈雨の修法(雨乞いの祈祷)を命じます。(天皇自らバトルを煽っているような感じですね。)

ここに、当時の仏教界の2台巨頭による頂上決戦の火ぶたが切って落とされます。

まずは先手、西寺の守敏僧都が7日間にわたって修法を行いました。が、あまり効果がなく、雨は降りましたが、国中を潤すほどではありませんでした。いまいちスッキリしない降り方だったようですね。でも、雨を降らせたというところは及第点でしょうか。

さて後手、今度は東寺の空海の番です。空海は大内裏に接していた「神泉苑」で修法を行いました。渾身の力を込めて祈ったのですが1滴の雨も降りません。これはどうなっているのか、と調べてみると、守敏僧都が呪術を使って国中の龍神(水、雨の神様)を瓶の中に閉じ込めてしまったのでした。空海大ピンチ。しかしただ一体、「善女龍王」だけは守敏僧都の手から逃れていることが分かったので、天竺の無熱池(むねっち)から呼び寄せて、3日間に渡り国中に大雨を降らせることができたのでした。この「善女龍王」は今でも「神泉苑」に祀られています。

かくして、祈雨の修法を競った2台巨頭のバトルは東寺の空海が勝利を収め、その名声が天下に轟くところとなりました。面白くないのは守敏僧都の方です。龍神を閉じ込めて空海にまんまと一杯食わせてやったと思った矢先、完ぺきではなかった作戦を見破られて、今度はまんまと一杯食わされた格好です。世間の噂は「やっぱり東寺の空海が勝ったぞ!」となりますね。天皇の御前での勝負に負けたので面目丸つぶれです。もし守敏僧都が勝っていたら「やっぱり西寺の守敏が勝ったぞ!」と世間は言ったことでしょうに。(ま、世間なんてそんなもんです。)

このままでは、守敏僧都の腹の虫が治まりません。よっぽどはらわたが煮えくり返ったのでしょう。悪者としての面目躍如たる行動に出ます。なんと、羅城門の近くを通る空海を待ち伏せして、空海に向かって矢を放つという愚行に出ます。守敏僧都が空海の背後から矢を放った瞬間、一人の黒衣の僧が現れました。僧は空海の身代わりとなって矢を右肩に受け、そのおかげで空海は難を逃れたのでした。その黒衣の僧は、実はお地蔵様の化身であったといわれ、以来「矢取地蔵」と称されたのだそうです。

これは伝説なのでしょうけど、空海の徳の高さを表している逸話でしょうね。

では京都市南区の羅城門跡の横にある「矢取地蔵尊」を訪ねましょう。

矢取地蔵尊 No2

ここが「矢取地蔵尊」のお堂です。「矢取地蔵寺」とも呼ばれています。このお堂の裏側が児童公園になっていて、そこに「羅城門址」の石票が立っています。

矢取地蔵尊 No3

このお堂は明治18年(1885年)に唐橋村(八条村)の人々により寄進され建立されたものです。

矢取地蔵尊 No4

昭和の初期に、お堂の前の九条通りの拡幅工事が行われたのですが、この周辺から多数のお地蔵さんが発掘されました。その昔、この辺りは刑場があったようで、お地蔵さんは打ち首になった人の供養塔として祀られたものだそうです。京都にはあちこちに刑場があったんですね。

矢取地蔵尊 No5

「矢取地蔵尊」の駒札です。

矢取地蔵尊 No6

「矢取地蔵尊」の扁額です。

矢取地蔵尊 No7

御本尊の「矢取地蔵尊」です。ガラス越しに写真を撮らさせていただきました。「矢取地蔵」は石像で右肩に矢を受けた跡が残っているということですが、ちょっと暗くてよく分かりませんでした。元は木像のお地蔵さまで背中に矢傷があったことから「矢負(やおい)地蔵」とも呼ばれていたそうです。

京都にはこのような伝説や逸話がたくさんあり、それの基づいた史跡旧跡があったりするので面白いです。東寺は現在でも残っていますが、西寺は衰退して「跡」しか残っていません。近々この「西寺跡」も紹介する予定です。

今回のバトルが行われた「神泉苑」もとても良いところです。一度訪れてみてください。

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アクセス

  • 京都市バス「羅城門」下車、すぐ

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