文子天満宮 その1 舊址、末社編

 文子天満宮の変遷

菅原道真公に関する史跡はたくさんありますが、その一つである文子天満宮です。

文子天満宮に関する史跡もいろいろあって、

1).文子天満宮舊址(あやこてんまんぐうきゅうし:京都市上京区)
2).文子天満宮(北野天満宮末社)
3).文子天満宮(京都市下京区)
4).文子天満宮(京都市左京区岡崎)

と、京都市内だけでも4つの史跡が上がります。

幼少から才能に恵まれた菅原道真公は醍醐天皇の時に右大臣にまで上り詰めますが、延喜元年(902年)、左大臣、藤原時平の陰謀により、いわれのない罪をきせられ太宰府に左遷されてしまいます。左遷された道真公は、延喜3年(903年)に59歳で亡くなりましたが、没後、道真公の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、「われを右近の馬場に祀れ」との道真公の託宣を受けます。しかし、文子は貧しくて社殿を建立することができず、右京七条二坊十三町の自宅に小さな祠を建てて道真公を祀っていました。その後、文子の住居跡は神殿に造り替えられ文子天満宮なります。これが、上の3)文子天満宮(京都市下京区)で、天神信仰発祥の神社、また北野天満宮の前身ともいわれる由縁です。

その後、年代は不祥ですが文子天満宮は西ノ京に遷されます。これが、1)文子天満宮舊址です。

やがて、明治6年(1873年)、文子天満宮は北野天満宮境内に遷されます。これが2)文子天満宮(北野天満宮内)です。明治6年以後、1)は北野天満宮御旅所になってます。

文子天満宮舊址

文子天満宮舊址 石碑

丸太町通りから天神通りを北に向かって歩きます。5分も歩かないうちに、左手に「文子天満宮舊址」があります。

文子天満宮舊址 鳥居

文子天満宮舊址 拝殿

舞殿が残っています。

文子天満宮舊址 祠

祠がありますが、本殿は遷ってしまっているのでありません。

天神通りは、そのまま北へ北へと歩いていくと、北野天満宮の西の端に到達します。

文子天満宮(北野天満宮末社)

次は、北野天満宮内の末社である文子天満宮です。文子天満宮舊址の方から行くと、今出川通りの正面口から境内に入ることになります。

でも、天神さんには実は北側の入り口(北門)があって、混んでる時なんかはこちらからか、東側の入り口(東門)から入ると、本殿にすぐたどり着けます。

北門から入ります。

文子天満宮 北野天満宮北門No1

文子天満宮 北野天満宮北門No2

北門です。静かで厳かです。

文子天満宮 No1

文子天満宮は、北門から入るとすぐ左手にあります。まさに入ったところです。

文子天満宮 No2文子天満宮 NO3

文子天満宮は、北野天満宮の一の鳥居からまっすぐ、まっすぐ歩いてくると、ちょうど正面に当たるところです。北野天満宮の本殿は少し西に偏って建っています。

文子天満宮 No4

周囲は木が生い茂って、静かで神社らしい雰囲気がしていて、北野天満宮本殿の人の多さとは格段の差があります。

文子天満宮というと、すぐに下京区の文子天満宮を思い浮かべますが、時代とともに北野さんの方へ移っているんですね。現代では下京区の文子天満宮の方がにぎやかで参拝の方も多いのですが、こちらの文子天満宮の方が厳かで好きです。北野天満宮にお参りの際にはちょっと寄ってみてください。

最後に、あまりロマンをぶち壊すようなことは書きたくないのですが…

菅原道真公は、承和12年6月25日(845年8月1日)うまれで、延喜3年2月25日(903年3月26日)に亡くなっています。ネットで探索すると、多治比文子が託宣を受けたのが942年と書かれています。

乳母であった多治比文子は道真公より少なくとも15歳は年上であったと思われるので、110歳を超えてから託宣を受けたんでしょうか? そんな長生きしてたんでしょうか? 違う「文子」なのでしょうか? 942年が間違っているのでしょうか? よくわかりません…

で、近々、下京区にある「文子天満宮」に参詣して謎を解きたいと思います。

アクセス

【文子天満宮舊址】

  • 京都市バス「丸太町御前通」下車、徒歩5分

【文子天満宮】

  • 京都市バス「北野天満宮前」下車、徒歩10分

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