山鉾巡行の出発点
なんともすごい名前の神社です。
場所は京都市下京区の「東洞院通り」です。四条通から下がっていくと「綾小路」につく前にあります。
「悪王子(あくおうじ)」なんていう名前を聞くと、なんか悪いことをしたんだろうかと思いがちですが、そんなことはありません。
それに加えて、「悪王子社」なのに「元悪王子社」と記されていたり、なんかよくわからない神社ですね。ここが「元悪王子社」ならほんとの「悪王子社」はどこ? と疑問がわきますよね。
少しずつなぞ解きをしていきましょう。
「悪王子社」のご祭神は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」で、その「荒御魂(あらみたま:神の荒々しい側面)」を祀っています。「素戔嗚尊」は、出雲の国、「肥河(ひのかわ)」の川上で「八岐大蛇(やまたのおろち)」を退治しました。「悪」というのは「強力」の意味であり、「素戔嗚尊」に対する称号として「悪王子」が使われます。
「素戔嗚尊」の若き日の勇猛心を「荒御魂」として祀ったのですが、「荒御魂」は現実に姿を顕した霊験あらたかな神ということであり、「祇園社(八坂神社)」の「牛頭天王(ごずてんのう:これも素戔鳴尊を指します)」の「和御魂(にきみたま:神の優しく平和的な側面)」と「祇園祭」で一体化することによって頂点に達するそうです。
さて、「素戔嗚尊」を祀った「悪王子社」ですが、創建や変遷の詳しいことはわからないそうです。平安時代の天延2年(974年)に「八坂神社」の摂社として、この地に建立されたのですが、天正18年(1590年)には烏丸通の五条に、また慶長元年(1596年)には「豊臣秀吉」の命令で烏丸通りの万寿寺下るに、次いで四条通り寺町の「祇園御旅所」、四条通りの大和大路角と変遷を繰り返し、明治10年(1877年)に「八坂神社」境内の本殿東側に移転しました。
なのでこの地域は「元悪王子町(もとあくおうじちょう)」と呼ばれ、移転された烏丸通り万寿寺下ルには「悪王子町」の名前が残っています。
そして平成10年(1998年)現在の地に新たに祠が建てられ「悪王子社」として分霊が祀られることになりました。
この「悪王子社」とは、どんな神社なのでしょうか。それは京都の三大祭りの一つである「祇園祭」と深い関係があります。平安時代には戦乱、疫病流行、天変地異などが相次ぎ、社会不安が高まります。これらの原因は恨みをこの世に残したまま亡くなった人々の「怨霊」の祟りであると考えられていました。朝廷は疫神や死者の怨霊などを鎮めるために、貞観5年(863年)「神泉苑」で初の「御霊会(ごりょうえ)」を行いました。その後も富士山の噴火や地震が続き、貞観11年(869年)に「卜部日良麿(うらべ のひらまろ)」が全国の国の数を表す66本の「矛」を立て、その「矛」に諸国の悪霊を移し宿らせるて諸国の穢れを祓い、「神輿」3基を送って「牛頭天王」を祀り「御霊会」を執り行いました。この「御霊会」が祇園祭の起源となります。
その中で「悪王子社」は「祇園祭」の行列の無事を祈願する神社として変化していきました。四条東洞院の辻で、四方に「斎竹」を立て、「注連縄(しめなわ)」を曳き渡し、神に供え物を捧げる「神供(しんく)式」を行い、この辻より巡行の列は出発していました。今でも「くじ引かず」で先頭になる「長刀鉾」は四条東洞院から出発します。
では、東洞院の「悪王子社(元悪王子社)」に行ってみます。
私は「綾小路通り」から「東洞院通り」を上がりました。と、すぐに見えてきましたよ。
ビルの前の一角に「悪王子社」があります。
現在は小さな祠です。
とってもきれいですね。
掃除が行き届いているだけではなく、装飾品もきれいに磨かれているような印象です。
インパクトがあります。
「悪王子社」の駒札です。
「元悪王子町」の住居表示です。しかしすごい住所ですね。
「悪王子社」の祠のもう少し北側に石柱が残っています。
「悪王子社之趾」と刻まれた石柱です。
平成10年に新しい祠が建立されるまでは、これが「悪王子社」の痕跡を示す唯一の証拠だったんですね。四条通に近いビルの陰にひっそりと建っています。
平安時代から連綿と続く「祇園祭り」ですが、歴史が長いだけあって、関係する史跡や旧跡もたくさん残っています。「悪王子社」のように、一度失われたものてあっても、歴史の流れの中で復活することがあります。その地にあってこそ、そのものの力が発揮されるならば、自ずと復活するんでしょう。
四条烏丸の方に来られた時には、「元悪王子社」にお詣りしてみてください。運命を切り開いてくれる神社です。
アクセス
- 京都市バス「四条高倉」下車、徒歩2分