旧二条城跡碑 工事中

信長の二条城

京都観光で有名なところと言えば、金閣寺や清水寺と肩を並べる二条城ですが、二条城は何回か移動しているのですよ。

現在、堀川通に面している世界遺産に登録されている「二条城」は「元離宮二条城」というのが正式な名前であり、慶長8年(1603年)3月に徳川家康が造営したものです。天守は慶長11年(1606年)に完成してます。そして、平成6年(1994年)に、古都京都の文化財を構成する17の遺産の1つとして、世界遺産に登録されました。

で、こっちの「二条城(元離宮)」は有名なので、京都のガイドブックには絶対載ってるでしょうし、このBlogではガイドブックに載ってない「二条城」を取り上げます。

さて、「二条城」と呼ばれるものはたくさんあって、Webで検索してもらえば、他のBlogやホームページで皆さんが紹介しているので、私はサラッと紹介しておきます。

1.室町幕府13代将軍「足利義輝」の居城。「二条御所武衛陣の御構え」。

2.室町幕府15代将軍「足利義昭」の居城として、織田信長によって作られた城。二条通からは遠く離れていた。ただし平安京条坊制の「二条」(二条大路と中御門大路(現椹木通)に挟まれた地域)には城域の南部分がわずかに含まれる。義輝の「二条御所」とともに「二条」の名を冠して呼ばれるのはこのためと考えられる。

3.織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。二条通にも面さず条坊制の二条にも属していない。二条家の屋敷跡に設けられたための呼称と考えられる。

4.天正11年(1583年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。「妙顕寺」を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天守もあった。

4.の「妙顕寺城跡」は以前紹介しました。

 史跡 妙顕寺城 京都市中京区の二条城に近いところに「妙顕寺城跡」の石碑があります。 「妙顕寺城」というのは、豊臣秀吉が入洛した時に...

そして、今回の「旧二条城跡」は2.の織田信長が造営した「二条城」です。第13代将軍「足利義輝」が暗殺されたので、幼少期に出家していた弟の「足利義昭」は還俗して、室町幕府の再興を目指して織田信長を頼ります。「織田信長」は「足利義昭」の後見を努め、ともに上洛しました。そして「足利義昭」の将軍座所(居城)として「足利義輝」の城跡(上記の1.)を中心に拡張工事を行い「二条城」を造営しました。

平城は二重の堀で囲まれ、短期間(70日といわれます)で完成させるために、建築資材、調度品は、法華宗本山「本国寺」から調達し、濠の石垣構築には、洛中洛外の石仏、石像、庭石、灯籠、石碑などあらゆるものを利用しました。「イエズス会」の宣教師でポルトガル人の「ルイス・フロイス」も二条城築造現場で信長と初対面しています。

しかし、その後、信長と義昭の関係は悪化し、信長は義昭を追放しようとします。元亀4年(1573年)義昭は二条城で挙兵したのですが、信長は上京を焼き払い、二条城を包囲しました。そして「和解」により義昭は城を去るのですが、これを機に室町幕府は滅ぶことになります。

では、2.の信長の「二条城跡」に行ってみましょう。

「烏丸通り」の「菅原院天満宮神社」の北側にある「下立売通り」を西に歩きます。

旧二条城跡碑 No2

画像の先の方に見えるのが、御所(京都御苑)です。あっちから歩いてきましたよ。

旧二条城跡碑 No3

で、地図で見ていた場所へ来たのですが...

旧二条城跡碑 No4

「平安女学院」の建物が工事中で、「旧二条城跡碑」は、何やらカバーに覆われています。

旧二条城跡碑 No5

それもまた、ご丁寧に碑面が全然読めないほどに防護材が巻きつけられています。

旧二条城跡碑 No6

う~ん、残念。  おっと、私の足が写り込んでしまいましたね。

仕方がないので、工事が終わったころにまた訪れることにしましょう。

アクセス

  • 京都市バス「烏丸丸太町」下車、徒歩7分

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