新選組最後の洛中屋敷跡の碑 謎の不動堂村屯所跡

在所不明?

毎年、京都観光に訪れる方はたくさんいらっしゃいます。ゴールデンウィークや紅葉の時期などは、主な観光地は人でいっぱい、バスもいっぱいで時間通りに来ないという、とても大変な状況が繰り返されています。

最初に京都に来るときには「清水寺」や「金閣寺」、「二条城」といった、「一生に一度は見とくべき」観光地を廻ると思います。その次には、インスタ映えするような、ちょっとマイナーだけども見栄えのいいところに行くのではないでしょうか。例えば「伏見稲荷」の「千本鳥居」とか「瑠璃光院」の紅葉とか。そして京都慣れしてくると、自分なりのテーマを持っての観光が増えてくると思います。大河ドラマで出てきた旧跡とか、源氏物語に関する名所、幕末の新選組に関する名所とか。

一時期、「大河ドラマ+新選組」の時には、それ目当ての観光客がどっと溢れましたね。今回は、その「新選組」の「屯所」跡に行きます。

幕末に京都で活躍した新選組は、「屯所(とんしょ)」と呼ばれる駐在場所を本拠地として行動しました。新選組はこの屯所を、最初は「壬生(みぶ)」の「八木邸」に置いたのですが、「西本願寺」の「太鼓楼」に移転し、その次には「葛野郡不動堂村」に移転しました。

この3番目の「不動堂村」の屯所跡は、正確にどこにあったのかという資料が残っていないのですが、一番確率が高い場所に行きましょう。

「京都駅」のバスターミナルと京都タワーの間に走っている「塩小路通り」を駅前から西に向かって歩きます。

新選組最後の洛中屋敷跡の碑 No2

すると、「西洞院通り」との交差点にある「京湯元 ハトヤ瑞鳳閣」の前に石票があるのが見えてきます。

新選組最後の洛中屋敷跡の碑 No4まだ新しくてきれいですね。

新選組最後の洛中屋敷跡の碑 No5

「此付近 新選組最後の洛中屋敷跡」と書かれています。正確には場所が特定できないので「此付近」と付いているんですね。

新選組最後の洛中屋敷跡の碑 No3

「不動堂村屯所跡」について説明されています。「新選組」は慶応3年(1867年)に屯所を「不動堂村」に新築し,それまで屯所としていた「西本願寺集会所」から移転したのですが、その場所はここよりもまだ西北にあったのではないかと推測されています。

当地は古代の表記でいえば、平安京左京八条二坊十五町にあたります。

中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、いわば工業地帯でした。が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村が成立しました。しかし豊臣期に構築された、京都全域を囲い込む城壁・環濠「御土居堀」の郭内に位置していたため、「洛中」(都市)扱いを受けました。

幕末期、新選組がこの地域に屋敷を営みました。池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。これにあわせての新屋敷建設です。いわば最盛期の邸宅といえます。近藤勇の甥で隊士だった宮川信吉の書翰によれば、同年6月15日に入居しています。位置については、同書翰に「七条通り下ル」、幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実です。

が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません。

同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか半年で当屋敷を離れます。翌年1月の鳥羽伏見戦争の敗北ののちは、関東へ下り、解体の道を歩みます。当屋敷は維持されず早々に消失して、静かな農村に戻ったことでしょう。

が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に編入されます。当地付近は、地域史上はじめて京都屈指の「人の集まる場」となり、今に至ります。

歴史地理史学者 中村武生

本の半年余りですが、この付近に屯所を営んだことは事実です。それも将軍直属の軍隊となった新選組ですから勢いのあったときですね。

この近くにも「不動堂村屯所跡」を名乗るところが、他に2か所あります。順次紹介していきたいと思ってます。

アクセス

  • 京都市バス「下京区総合庁舎前」下車、徒歩1分

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