小さな社 梅宮社
猫で有名な梅宮大社とは違いますので、お間違いのないように。
三条通白川橋の東詰めから白川の東岸を南に向かって歩きます。
しばらく歩くと、上の画像のような道標がありますので東へ向かいます。
東 梅宮 明智光秀墳
と彫られています。
道標の後ろには、現代の道標があります。
石の道標は百年後も残っていると思いますが、この案内は百年後残っているでしょうか。
ここから、20mです。
家と家の間に、小さな社があります。ここが、梅宮社です。
明智光秀公 首塚
天正10年(1582年)6月13日、明智光秀公は本能寺にいた織田信長を急襲しました。この本能寺の変のすぐ後に、光秀公は山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖(伏見区)の竹薮の中で、残党狩りの農民・飯田一党の襲撃を受けました。光秀公は深い傷を負って、遺言として知恩院にて灰にするよう言い伝えて自刃します。腹心・溝尾茂朝(溝尾庄兵衛尉)が介錯し、知恩院前まで来た時に夜が明け、光秀公の首はこの地に埋めたといいます。また、村井長門守の士卒に発見されて、その首は粟田口黒谷道に晒されました。その地に建てられた首塚が現在の梅宮社に移されました。
手水鉢です。人形浄瑠璃に関係する人が奉納したようです。画像右の側面には、~太夫の字が彫られています。
光秀の戒名である「長存寺殿明窓玄智禅定門」と刻まれた墓石です。
明治36年(1903年)に市川団蔵が建てたました。
これが明智光秀の首塚と言われています。
弘化2年(1845年)にたてられた五重石塔です。
光秀公の首は梅宮社に首塚として供養されていますが、胴の方は明智藪(伏見区小栗栖)の近くに「明智光秀之塚(胴塚)」として、山科区勧修寺に供養されています。
光秀公は三日天下で山崎の戦いに敗れ、残党狩りの農民に竹やりで刺されて自刃したという、少し哀れな武将です。しかし天下を取るという野望をもち、天下統一に一番近かった織田信長を倒すというチャンスを見逃すことなく実行に移したということはとても決断力のある人だったと思います。
アクセス
- 京都市営地下鉄「東山」下車、徒歩5分
- 京都市バス「東山三条」下車、徒歩7分