道標 街角の記憶

 旅人の道案内

京都市内を歩くと、いたるところに石碑があります。そのなかでも、「道標」と言われる「みちしるべ」がとてもたくさん残っています。

地元民にとっては、昔からそこにあるものなので、普段の生活の中ではあまり気にせず通り過ぎているのですが、時々、いつからあるんやろか? と疑問に思うことはあります。

地元民は市内のことは、どこに何があるか知ってますし、今はスマホがあればまぁ道に迷うことはありません。とくに京都市内は縦横の碁盤の目に道が整備されているので、地名を聞くだけで、行ったことのないところであってもすぐに想像がつきます。

道標も、多くの道が東西と南北なので、設置が楽ですし、「北」とか「西」とか、ダイレクトに字が彫られています。

市内にある有名な道標を調べてみたのですが、いっぱいありすぎて紹介しきれないので、「京都市史跡」に登録されている道標の紹介をします。

調べてみると、昭和62年(1987年)5月に5つの道標が、京都市史跡として登録されています。

・吉田本町道標(宝永6年、1709年)
・北白川西町道標(嘉永2年、1849年)
・三条通白川橋東入五軒町(三条白川橋)道標(延宝6年、1678年)
・今出川通寺町東入表町(大原口)道標(慶応4年、1868年)
・御陵中内町(五条別れ)道標(宝永4年、1707年)

では順番に行ってみます。

1.吉田本町道標

最初は、吉田本町道標です。これは京都大学本部棟の角である東大路通と、東一条通の角にあります。が、ちょっと変なのですが、その立て方がおかしいのです。

ふつう、道標の側面は、道と平行になるのですが、この道標は東大路通りや東一条通とは45度ずれて側面が設置されています。

つまり、東大路通や東一条通の道標ではないのです。

吉田本町道標 No1

この写真は東大路通りと東一条通の交差点です。車が走っているのが東大路通で、車の進行方向が南です。

よく見ると、画像真ん中の白い4階建てのビルの左側に小さな道が見えます。

この道が今回の主役である「志賀越道」です。

吉田本町道標 No2

吉田本町道標ですが、上の画像では東一条通りと45度の角度を成して建てられています。
(あとで述べますが、志賀越道はこの道標をかすめて、後ろの石垣を突き抜けて続いてたんですね)

吉田本町道標 No3

史跡、吉田本町道標です。

吉田本町道標 No4

左 百まんへん(百万遍知恩寺)

吉田本町道標 No5

右 さかもと からさき 白川

吉田本町道標 No6

沢村道範(道標を立てた人の名前です)

吉田本町道標 No7

宝永六年 己丑十一月日

これでお分かりのように、吉田本町道標は志賀越道の道標だったので東大路通りや東一条通りとは45度ずれているのです。

吉田本町道標は、京都市内の道標の中では3番目に古いものです。昔の工事で壊れたものを京都大学の先生が補強をされたそうで、痛々しい姿ではありますが、現在も道標として、また京都の史跡としての役割を果たしています。後世まで存続されることを望みます。

吉田本町道標

さて、「京の七口」の一つである荒神口から洛中を出て、荒神橋で鴨川を渡ると、北東方面に道が続いています。これが志賀越道です。比叡山の南側を通って大津まで抜ける道です。地元民は「山中越え」と呼びます。

荒神口から出て志賀越道をつらつらと歩くと、吉田本町道標にたどり着くのですが、上の画像のように、現在は京都大学の敷地がど~んと占領してます。

赤い線が志賀越道
緑の枠の中が京都大学の敷地

京都大学が、歴史ある志賀越道をぶった切ったのか?ゆるせん!

というのは間違いで、江戸時代にこの地に尾張藩の下屋敷が造られる際に志賀越道が分断されたのだそうです。で、そのあとに京都大学が建てられたので志賀越道は分断されたままなのです。

では分断された先の、志賀越道を歩きましょう。そうすると、ほどなく北白川西町道標に出くわします。

2.北白川西町道標

分断された志賀越道路に戻り歩き出すと、吉田山の北の登り口につきます。

北白川西町道標 No1

上の画像の奥手のほうが京都大学で、目の前の車止めが吉田山の北の登り口です。画像の左手方向に鳥居と石の階段があります。で、上の画像のすぐ右手に、これまた、ど~んとお地蔵さんが並んでます。

北白川西町道標 No2

そのお地蔵さんの左手に、北白川西町道標があります。さすがに、道標よりもお地蔵さんのほうが迫力があります。

北白川西町道標 No3

(西面) すく
比ゑいさん 唐崎 坂本
嘉永二年己酉仲夏吉辰願主
某 石工権左衛門

(北面) 北 右
北野天満宮 平野社
下上加茂 今宮 金閣寺

北白川西町道標 No4

南 左
三条大橋 祇園 清水
知恩院 東西本願寺

北白川西町道標 No5


吉田社 真如堂
銀閣寺 黒谷

北白川西町道標 No6

その横に、天神宮社と彫られた石碑があるのですが、これについてはよくわかりません。吉田山(吉田神社)の入り口だからでしょうか。

北白川西町道標から、今一度今出川通りを見てみます。

北白川西町道標 No7

黄色の信号が今出川通りで、正面の3階建てのビルの左手が「志賀越道」の続きです。この道をどんどん進むと北白川を超えて、山中越に至ります。

で、上の画像の志賀越道のところに、何やら、瓦屋根の祠のようなものが見えますね。(電柱の左です)行ってみます。

北白川西町道標 No8

「子安観世音」です。この石仏は豊臣秀吉を打ち負かしたことで有名です。ある日、秀吉に気に入られた石仏は聚楽第(じゅらくだい)に移されてしまいます。しかし、「もとの白川に戻せ」と毎夜うなり声を上げて、音を上げた秀吉は元の白川の地に戻したといいます。

文政十三年(1830年)の白川村の大火では、石仏の両手と首がちぎれてしまい「首切れ地蔵」と呼ばれました。その後、当時の村の入口に当たる現在地に移されて、お地蔵さんとして子授けや安全の願いをかなえ、子どもの成長を見守る観音として信仰を集めています。

この前の道は細い道にもかかわらずとても交通量の多い道です。正面からの写真を撮るにも苦労しました。少し前にこの石仏は、走行中のトラックにぶつけられる事故に遭ってます。首切れ地蔵であり、頭と胴体は丸太を使って別々の石で組み合わせた弱い構造だったため、頭が転げ落ちてしまいました。(こわ~。)落ちた頭の部分は、額を中心に損傷し、今もその部分だけは白くなっていてわかります。セメントで塗り固めた跡がはっきりと見えます。

ぶつけたトラックの運転手はどうなったのでしょうか。ちょっと心配です。みなさん、安全運転を心がけて、スピードは控えめにしましょう。

北白川西町道標 No9

北白川西町道標 No10

正面から撮った画像です。後ろの建物のシャッターと比較してもらうとわかるのですが、異様に大きい石仏です。私は気が弱いので、夜は近づけないと思います。

この石仏の首が、ゴロンと...

3.三条白川橋道標

次は三条白川橋道標です。今回の5つの道標の中では一番古い道標です。東山三条から東に少し歩くと、白川の橋があります。

三条白川橋道標 No1

橋から下流を見るとこのような風景です。この先に白川一本橋(行者橋)があります。

三条白川橋道標 No2

さて、三条白川橋道標ですが、「白川子ども夏まつり」の最中で、垂れ幕や幟が括り付けられてあり、写真が撮れません。
ちょっとがっかりです。

北側の面には

三条通白川

と彫られています。

三条白川橋道標 No3

東の面には

(是より)ひだり
ちおんゐんぎおんきよ水みち

と彫られています。

三条白川橋道標 No4

残念ながら南の面は判読不能です。

白川子ども夏まつりが終わったら、再度出かけてみます。

東海道から京都の方へ来ると、三条大橋が京都の入り口です。その手前約800mのところにこの三条通白川橋があるのですが、この道標で左の方向へ行くと、知恩院、祇園、清水寺に近道だということを教えてくれている道標です。

4.大原口道標

河原町今出川から信号一つ西に行った寺町通りの交差点にあります。この道標も結構立派で大きな道標です。

大原口道標 No1

大原口道標というのですが、大原に向かう”口”を表します。”口”とは「京の七口」と言われる京都を囲む土塁である御土居(おどい)に開けられた出入り口の一つです。大原とは、もちろん八瀬大原を差しますし、福井や北陸につながる鯖街道へと続く道です。

大原口道標 No2

かう堂(革堂)、六角堂、
六条(本願寺)、祇園、
清水、三条大橋

と彫られています。

大原口道標 No3

下かも、比ゑい山、
吉田、黒谷(金戒光明寺)、
真如堂、坂本城

大原口道標 No4

上御霊、上加茂、
くらま、大徳寺、
今宮

大原口道標 No5

西

内裏、北野、
金閣寺、御室、
あたご

崩しすぎずわかりやす字で、とてもきれいに彫られています。流麗な文字で、これほどきれいで整った印象の道標はなかなかお目にかかれません。

5.五条別れ道標

五条別れ道標です。地下鉄東西線の山科駅を出て、旧東海道を西へ歩きます。京都市内の三条通りは九条山を越えて、この旧東海道につながっていました。狭い道なので、現在はもう少し南に広い三条通りが通っています。

五条別れ道標 No1

山科駅から旧東海道へ入ったところです。西に向いてます。あの山の向こうが京都市内です。(山科区も京都市内なんですけど、京都の盆地部分を京都市内って言ってしまいますね。)

五条別れ道標 No2

ずんずん歩くと、3分ほどで見えてきました。けっこう大きくて立派な道標です。交通の要所であり、これだけ大きい道標だったので、現代まで残ったんですね。

五条別れ道標 No3

左は五条橋 ひがし 六条 大佛
にし
今ぐま きよ水 道

と書かれています。

ここから左へ行くと五条大橋
東西の本願寺(六条) 方広寺(大佛)
今熊野 清水

ということです。

五条別れ道標 No4

右は三条通り

旧東海道が三条通りにつながっていた証拠です。

東海道から京都に向かって子の道標にたどり着いたときに、右は三条、左は五条ということで、五条通りへ行くための五条別れの道標です。

五条別れ道標 No5

願立「沢村道範」と彫られています。

五条別れ道標 No6

宝永4年(1707年)11月

五条別れ道標 No7

五条別れ道標から南方向、つまり五条通の方向を見るとこんな風景です。この先、渋谷街道を通って五条大橋へ行ったんですね。

日頃は風景の中に溶け込んでしまっている道標ですが、京都の歴史をつぶさに見てきており、その背景にはいろいろな物語があります。近くの観光地を訪れるときにはちょっと気にかけて、訪問してみてください。新しい人生の方角を教えてくれるかもしれませんよ。

アクセス

1)吉田本町道標

  • 京都市バス「京大正門前」下車、すぐ

2)北白川西町道標

  • 京都市バス「北白川」下車、徒歩1分

3)三条白川橋道標

  • 京都市バス「東山三条」下車、徒歩3分
  • 京都市バス「神宮道」下車、徒歩3分
  • 京都市営地下鉄「東山」下車、徒歩1分

4)大原口道標

  • 京都市バス「河原町今出川」下車、徒歩2分

5)五条別れ道標

  • 京都市営地下鉄「山科」下車、徒歩7分

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