稲住神社・魔王尊 ご祭神 安倍晴明 卿

土御門家

今日は久々に、ごっつうパワースポットなところを紹介します。

西大路八条の交差点から北に向かうと、すぐに小さな交差点があります。もちろん信号などのない、どこにでもあるような特徴のない交差点です。ここを東に向かって歩きましょう。

道が細いので、自動車は東行きの一方通行です。何も考えずにどんどん東に歩きましょう。交差する道を2,3本越えると、いきなりどん突きになってしまいます。

でもよく見ると、ほんとに小さい通りがまだ東に続いています。ここに入って行きます。家と家に挟まれたほんとに狭い通りで人がすれ違うことはできますが、自動車で入るにはちょっと無理じゃないかと言うほどの狭い通りです。

最初は路地で行き止まりかなと思ったのですが、通りの入り口に立つと、向こうの方に道が続いていて通り抜けできそうです。通り抜けると、向こう側に道があって往来がありますね。

で、その路地に入っていくと、いきなり左手に「稲住神社」が出現します。

稲住神社 No2

なんかね、この路地だけが昔にタイムスリップしているような、ふる~い感じの路地で、「稲住神社」の境内なんかは、中世からなんの変化もないのではないかと思わせるような雰囲気を醸し出しています。入っていいんかな、と思わせるちょっとおどろおどろしい雰囲気です。

稲住神社 No3

境内の入り口にある「稲住神社」の石柱です。字体がちょっと怖そうな感じです。

稲住神社 No4

「稲住神社」のご由緒書きです。

稲住神社略記

一、祭神 安倍晴明卿(日本に於ける天文暦学の始祖)
一、由緒
このあたりは明治以前池がある広場で農家が稲束を積んでいた為、稲住の社名が生まれたと伝える。もともと梅小路八条のこの一帯は平安時代以後、陰陽道を以って朝廷に仕えた土御門家(安倍晴明卿の子孫で代々陰陽頭に任じ天文・暦の両博士を兼ねた。明治以後は子爵家)の屋敷のあった所で一町四方の邸内は北部が住居、南部が祭場となっていて祭場には祭壇本宮権殿その他の諸建物があり代々天皇の御即位に当って聖寿の長久を祈る天曹地府祭を行なった。貞亨元年(一六八四)幕府の天文方澁川春海は貞亨暦を作り陰陽頭土御門泰福と共にこの地に星台を建て渾天儀で天体を観測しその正確さを證明した事は史上に明らかである。土御門家の祖晴明卿を祀る当社がここの存する由縁深いものがあろう。
因みに、土御門家代々の墓碑は梅林寺にある。
一、祭日 十一月十六日前後の日曜日

そう、何を隠そう、「稲住神社」は「土御門家」ゆかりの、由緒正しい神社なのです。「稲住神社」の創祀や変遷の詳細は不明ですが、「土御門家」といえば、ご存知、陰陽師「安倍晴明」の子孫が賜った姓であり、もうこれだけでなにがしかのパワーがみなぎっているんではないかと感じさせてくれます。

稲住神社 No5

お社はそんなに大きくありません。ほんとに時代を感じさせるお社です。

稲住神社 No6

残念ながら、ご神体などは拝見することができませんでした。

平安時代には、この当たり一帯に、陰陽師「土御門家」の屋敷がありました。広さが1町(109m)四方あり、敷地の北側が住居で南側は祭壇などがあり、代々の天皇の即位に当っては「天曹地府祭(てんそうちふさい)」という陰陽道でも最も重要な儀式を執り行っていました。(六道冥官祭(ろくどうめいかんさい)とも言ったそうです)ということで、この辺りでは日常的に陰陽道の儀式がいろいろと執り行われていたんですね。

「安倍晴明」の後、「陰陽道」は天文学に長けた「安倍家」と暦の長けた「賀茂家」によって、その覇権が争われました。しかし、16世紀の半ば、「賀茂家」に後継する者がいなくなり断絶してしまいます。その後は「土御門家」となった「安倍家」が天文・暦ともに継承し、陰陽道の宗家となります。

室町時代に入り、「土御門家」は「応仁・文明の乱(応仁元年1467年~1477年)」の難を逃れて若狭国に移りました。

その後、江戸時代の初期には「徳川家康」の命令で「土御門家」は、若狭から京都に戻り、「梅小路」に大規模な邸宅を与えられました。

ご由緒書きに出てきた「土御門泰福(つちみかどやすとみ)」は「陰陽頭」になり、諸国の陰陽師を支配、免許の権限を得ました。「山崎闇斎」の「垂加神道」を学び、陰陽道・神道による「神道理論(土御門神道)」を打ち立てたました。

また、「土御門泰福」は、「山崎闇斎」の下で同門であった「渋川春海(しぶかわはるみ/しゅんかい)」とともに朝廷で「大和暦(貞享暦)」の採用を上奏し、これに成功します。先ほどのご由緒書きでは「土御門泰福」と「渋川春海」はこの地に「星台」を建て「渾天儀(こんてんぎ)」で天体を観測したそうです。

※渾天儀:天球儀(てんきゅうぎ)とも。天体の位置や運行を観測するのに使った器械。

しかし、江戸幕府が倒れ明治時代になると、明治5年(1872年)政府は陰陽道を迷信として廃止させました。それに伴い、この辺りもすたれていったのでしょう。

現在、「陰陽道」は「土御門家」の開いた「天社土御門神道」と、高知県香美郡物部村(現在の同県香美市)に伝わる「いざなぎ流」が残っています。
https://www.kyoto-inf.com/2017/06/27/posted-tutimikadosintou/

魔王尊

そして、「稲住神社」の境内、まさに「稲住神社」の前にあるのが「魔王尊」です。

稲住神社 No7

「魔王尊」は「稲住神社」に対して斜め45度に鎮座しています。何か意味がありそうなのですが、ご由緒書きにも記述がありません。ただ、方向がちょうど京都の鬼門にあたる方向ですね。何かの因果関係があるような気がします。

稲住神社 No8

「魔王」ときくと、とてつもなく恐ろしい神を想像しますが、「尊」とついていることで、少し印象が柔らかく感じますね。「魔王尊」といえば「鞍馬寺」の「護法魔王尊」と何か関係があるのでしょうか。

「土御門家」の墓がある「梅林寺」もすぐ近所にあり、やはりこの一帯は陰陽師「土御門家」のパワーみなぎる土地であったと思われます。「晴明神社」へのお詣りもいいですが、「安倍晴明」や「土御門家」に関係した旧跡はいろいろとありますので巡ってみてください。

アクセス

  • 京都市バス「西大路八条」下車、徒歩7分

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