太閤井戸 権威の象徴たるお茶会

北野のお茶会

豊臣秀吉は自己の権威を誇示するためにいろいろなことを行いますが、その一つに天正15年(1587年)に開催した「北野大茶湯(きたのだいさのえ)」があります。

太閤井戸は豊臣秀吉が「北野大茶湯」で、お水を汲んだと伝わる井戸です。

この大茶会では4つの茶席が設けられ、秀吉と千利休、津田宗及、今井宗久という当代きっての茶人3名を茶頭として迎えました。来会者には身分を問わず公平にくじ引きによって各席3~5人ずつ招き入れて名物を用いて茶を点てたそうです。秀吉は午前中は茶頭として茶を振舞い、午後には会場内を視察して1日を過ごし大変満足したそうです。

当初、10日間行われるはずだったのですが、初日だけ行われて2日目以降は中止されました。

太閤井戸 No1

太閤井戸は楼門の前の駐車場にあります。

太閤井戸 No2

井戸の中はどうなってるんやろ? と思って開けようとしましたが、大きな木の蓋がしてあり、開けられませんでした。

太閤井戸 石碑No2

現在は駐車場となっています。時々、ぶつける車があるそうで、金属の柱が建てられています。

太閤井戸 北野大茶湯石碑

この大茶湯では有名な「黄金の茶室」や「似たり茄子」などの秀吉自慢の名物を陳列しました。さすがに成り上りものだけありますね。

さて、この大茶会が一日で終わってしまった理由ですが、「肥後国人一揆が発生したという知らせが入って秀吉が不快を覚えたから」という説が有力で通説となっています。しかし、このほかにも「秀吉の自己顕示欲が1日で満足した」、「単なる専制君主特有の気まぐれである」、「秀吉が数百人も茶を点てるのに疲れてしまった」といろいろな見方があります。

でも、日本史学者の中村修也氏が「秀吉の予想より京都の人々が集まらず、予定通り続けてしまうと企画の失敗が衆目に晒されてしまうため、先手を打ってあいまいに終了させた」というのがほんとではないかと思います。秀吉は京都民のことを考えずに天正の地割を強行するなど、京都民からは嫌われていました。私の祖父母でさえ、「太閤さん」とはいうものの秀吉のことは悪口ばかりを言ってましたから。

天神さんの境内

右近の馬場 駒札

北野大茶湯石碑の南側に「右近の馬場」の駒札が建っています。菅原道真公が神社を建てて祀るようにと願った右近の馬場です。道真公は幼少時にこのあたりで遊ばれたのでしょうね。

まりなげ禁止

昔からの札です。「まりなげ」とは、最近の年寄りでも言いません。私の亡くなった祖父母世代(明治、大正生まれ)ぐらいまでですかね。

天神さんの境内や、上七軒に続く道はとっても面白いですよ。お参りに来られた際には、じっくりと隅々まで見てみてください。

アクセス

  • 京都市バス「北野天満宮前」下車、徒歩3分

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