平安宮内裏綾綺殿跡・温明殿(内侍所)跡・昭陽舎(梨壺)跡・建春門跡

探索行 継続

で、「一本御書所跡(国会図書館?)」「宜陽殿跡(国立美術館というか博物館?)」と巡ってきましたが、歩みを進めましょう。

「宜陽殿(ぎようでん)跡」からもう少し北上しますよ。

平安宮内裏綾綺殿跡 No2

「下立売浄福寺」から浄福寺通りを上がります。少し行くと「宜陽殿跡」ですが通り過ぎてもう少し北上。

平安宮内裏綾綺殿跡 No3

と、右手の並びに でで~んと立派な石柱。町屋に不釣り合いなぐらいの大きさ。

平安宮内裏綾綺殿跡 No4

それもお店の真ん前、敷地の中...「平安宮内裏綾綺殿(りょうきでん)跡」です。「宜陽殿」の北側にあった建物です。現在は「町屋ショップ&カフェ綾綺殿」というお店になっています。

平安宮内裏綾綺殿跡 No5

「平安宮内裏綾綺殿跡」の駒札です。

平安宮内裏綾綺殿跡

綾綺殿は、天皇の住まいである内裏の中心建物である仁壽殿の東にあった南北に長い建物で、東側は壺庭を挟んで温明殿、南には宜陽殿があった。
いわゆる内裏十七殿の一つで、宮中の舞などが行われ、「年中行事絵巻」にも女楽人や六名の妓女が艶やかに舞う姿が活写されている。
身舎は東西二間で、南北九間のうち南五間を納殿として使用し、宮中恒例の行事に使用する御物などが納められていた。

平安宮内裏綾綺殿跡 No6

「平安宮内裏綾綺殿跡」の石碑です。駒札からお分かりと思いますが、宮中の舞(内宴)の行われた場所で、西側の庭(仁壽殿との間)に舞台を設けて女楽人・妓女による舞が催されたそうです。現代でいうと皇室の晩餐会とかが平まれるホテルニューオータニみたいなところでしょうか?

平安宮内裏宜陽殿跡 No7

図で見るとこんな感じです。

で、現在、「綾綺殿」から「仁壽殿」の方を見ると...

平安宮内裏綾綺殿跡 No7

どうもここで、演舞が催されていたようです。妓女が艶やかに舞う姿...なんかガックシ。

ま、仕方ないですけどね。時代の変遷ですかね...

気を取り直して進みましょう。

上の図で「綾綺殿」の右手の方にくっついている「温明(うんめい)殿」の方に行きましょう。

平安宮内裏温明殿跡 No1

もう少し上がって十字路に出ます。ここが「新出水通り」ですので右折します。

平安宮内裏温明殿跡 No2

これまた狭い通り...

平安宮内裏温明殿跡 No3

ずーっと進んでいくと、「新出水通り」はクランク状に折れ曲がっているんですけども、そのクランクのところです。普通にとおってたらわからないでしょうけども、案内板があるんですよ、上の画像。

平安宮内裏温明殿跡 No4

絶対見落としますって。この案内板。

平安宮内裏温明殿跡 No5

「平安宮内裏温明殿(内侍所)跡」の案内板。

平安宮内裏温明殿(内侍所)跡

内裏内郭の宣陽門の内側にある建物。母屋は東西二間、南北九間で中央に馬道を挟み、北に内侍の候所、南に三種の神器の一つである神鏡を安置した賢所があったことから温明殿全体を賢所、または内侍所と呼んだ。当初、内侍所は清涼殿に置かれていたが、人の出入りを恐れて温明殿に移された。
清和天皇女御の源厳子は、この殿舎に住み温明殿女御と呼ばれた。『源氏物語』「紅葉賀」では、内侍所で琵琶を弾く源典侍に心をとめた光源氏が。頭中将と騒動をおこす舞台になっている。建春門・宣陽門・温明殿の姿は『年中行事絵巻』「内宴」にみえる。

「綾綺殿」からわざわざ「温明殿(うんめいでん)」を紹介したかというと、ここは三種の神器である「八咫鏡(やたのかがみ)」を安置していたところであるからです。「八咫鏡」とは「天照大神」が天岩戸を少し開けた時に、自身の姿を映すために「天児屋命」と「布刀玉命」が差し出した鏡です。

この場所は現代でも他に代わるものが無いのでたとえようがありませんね。「八咫鏡」は「伊勢神宮」に祀られており、その分身が皇居の「賢所」に安置されています。

当時の「温明殿」も現在はガレージですね。

で、「温明殿」の北側にも重要な施設があるんです。石柱も建ってます。

平安宮内裏昭陽舎跡 No1

ここ!

平安宮内裏昭陽舎跡 No3

「平安宮内裏昭陽舎跡」の石碑です。

平安宮内裏昭陽舎跡 No2

そしてその案内板。なにを隠そう、「昭陽舎」こそが「梨壺」なのですよ。

平安宮内裏昭陽舎(梨壺)跡

内裏の後宮七殿五舎の一つで、淑景舎の南に位置する。庭に梨を植えたことから梨壺と呼ばれた。建物は南北に二宇並び、南の正舎は東西五間、南北二間の母屋の四方に庇、北に孫庇があって四面に簀子がめぐっていた。
一〇世紀前半に東宮敦良親王(後朱雀天皇)の居所として用いられて以後、東宮御所として使用されるようになった。歴史上の梨壺女御として有名な人は村上天皇中宮の藤原安子である。
一〇世紀中頃、梨壺の一郭に村上天皇の命で撰和歌所が置かれ、大中臣能宣、清原元輔(清少納言の父)らによって『後撰和歌集』が編纂されたので、編纂者たちを「梨壺の五人」と呼んだ。

私の好きな「紫式部」のライバルであった「清少納言」の父親である「清原元輔」らの「梨壺五歌仙」によって、この場所で「後撰和歌集」が編纂されたところです。

ちょっと歴史上では有名な場所かな。ここも現代ではガレージですけど...ちょっと悲し。

さて、今回はもう一ヵ所。

「梨壺」からもう少し東の方に行ってみましょう。

平安宮内裏建春門跡 No2

と、見えてくるのがこの石碑。通りの南側にあります。

平安宮内裏建春門跡 No3

「平安宮内裏東限と建春門跡」の案内板。

平安宮内裏東限と建春門跡

松林寺境内の西域は、「源氏物語」の舞台ともなった内裏の東限に当たり、内裏にある四つの門のうち東側の外郭築地に設けられたのが建春門である。この門を入り、次の内郭回廊に設けられた宣陽門をくぐると、温明殿・綾綺殿を経て紫宸殿に至る。またこの門には、左衛門府の官人が詰めていたことから、左衛門陣とも呼ばれた。
天長一〇年(八三三)、建春門の北側に雌雉が集まり、衛士に射獲されたこと、延喜七年(九〇七)、醍醐天皇が仁和寺への行幸に際して建春門から出御したことなどが文献に見える。
なお、後世に建てられた松林寺境内が周辺より一段低くなっているのは、安土桃山時代に築かれた聚楽第(一五八六年に着工し、一五九五年に破却、松林寺北門に石柱あり)の南外濠跡に当ることによる。

で、石柱をよく見てみると...

平安宮内裏建春門跡 No4

「此付近 聚楽第南外濠跡」と記されています。

平安宮でいえば「外郭築地」の東側の門であって、ここから西側が内裏であったわけです。

で、太閤秀吉の時代には「聚楽第」の外濠になっており、今回は「松林寺」の門が締まっていて写真が撮れませんでしたが、門から境内の方向にスロープになって地面が下がってます。

「聚楽第」は関白になった太閤秀吉が天正15年(1587年)に完成させた政庁や邸宅を含んだ城郭です。わざわざ平安宮内裏跡に建てているのですよ。ほんでもって、当時後継ぎのいなかった太閤秀吉は家督および関白職を甥の「豊臣秀次」に譲り「聚楽第」は秀次の邸宅となります。ところが、「茶々(淀君)」に子供(秀頼)ができると、手のひらを返したように秀次を高野山に追いやり切腹させてしまいます。そして太閤秀吉は、秀次を謀反人として印象付けるために「聚楽第」を徹底的に破却してしまいます。

「天正の地割」やこんなこともあって、多くの京都人は秀吉に対して良い印象を持ってません。私の亡き祖母も「太閤はんの時代にはな...」と前置きして、あたかも自分が災難に遭ったかのようにグダグダと文句を言ってました。明治生まれの祖母ですが、太閤秀吉の狼藉は代々京都民に受け継がれてきたようです。

陰湿ですね、京都民。何百年も...ま、そんなことはどうでもいいですけど。

平安宮内裏建春門跡 No5

んで、「松林寺」の北門の東側は駐車場になっていてその隣は墓地です。墓地の真ん中になんかでっかい石があるのがわかりますでしょうか。

平安宮内裏建春門跡 No6

これ。台座の上に鎮座している巨石。なんなんでしょうかね? 門が締まってたので確認できませんでしたが、とっても気になります。機会があれば拝見したいですね。

今回も、歩いた距離は知れてますが、その範囲でもなかなか面白い、また歴史的にも意味のある場所が出てきますので京都市内の散歩はやめられません。

もうすこし「平安宮」に関連したところを紹介したいと思います。

アクセス

  • 京都市バス「千本丸太町」「丸太町智恵光院」「千本出水」下車、どのバス停からでも徒歩10分程度

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