療病院址 庶民の力

御池大橋のたもと

鴨川にかかる三条大橋や四条大橋は観光客でごった返しています。それに比べて御池大橋は車は多いのですが、歩行者は少なめです。

療病院址 No2

立派な石碑があります。

療病院址 No3

御池大橋から三条大橋を望みます。三条大橋は擬宝珠があったりして昔風なのですが、御池大橋は金属質で近代的な橋となってます。

その御池大橋の西詰に石碑がひっそりと建っています。御池通りの北側の歩道です。

療病院址 No5

「療病院址(りょうびょういんあと)」と書かれた石碑です。

療病院は現在の京都府立医科大学附属病院(通称:府立病院)の前身です。蘭学医の明石博高らが、槇村正直知事の協力を得て開設しました。

療病院址 No6

幕末から明治の動乱期、この近くの木屋町界隈では暗殺事件が数多く起こり、また京の町でも、禁門の変などの戦いがあり「医療」に対する関心が高くなっていました。

欧化政策を進めるにあたり、明石博高が働きかけ、京都の仏教界が中心となって資金を募り「療病院」を創設しました。市中の医者や薬屋の他に花街の芸妓も協力したと記録に残っています。府民の力で建てられた府民の病院です。

明治5年(1872年)9月,この地、木屋町二条に仮病院を開設しライプチヒ大学教授会によって選ばれたドイツ人医師ヨンケル( Junker von Langegg)を招き診療を始めました。

療病院は11月に東山区の青蓮院に移り診療と医学教育が行われるようになります。明治13年(1877年)には上京区の河原町通広小路へと移転し、明治36年(1903年),京都府立医学校が京都府立専門学校(現在の京都府立医科大学)に改編された時に同校の附属病院となりました。

京都の近代医療は府民の手でこの地から始まっています。とても貴重なことであり、当時の京都民は結構な力を持っていた証拠だと思います。

アクセス

  • 京都市バス「京都市役所前」下車、徒歩3分
  • 京都市営地下鉄「京都市役所前」下車、徒歩3分

御池大橋の西詰北側です。

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