白河南殿跡 六勝寺跡巡り その8

 白川と白河と岡崎

白河と名前の付く史跡には、白河殿、白河南殿、白河北殿とあってややこしいですね。

現在、岡崎公園のある「岡崎」一帯はもともと白川流域の何もない平凡な土地でした。白川は比叡山と右大文字(如意ヶ岳)の間を流れる川で、鴨川に注ぎ大阪湾までつながっています。

その白川が京都盆地に流れ出る辺りは扇状地であり、有史以来、人が住んでいた遺跡が発見されています。一番最初は現在の岡崎(平安神宮や京都市動物園があるあたり)が「白川」と呼ばれていました。流れていた川の名称は「白川」ですが、この地域は「白川」と記述されたり「白河」と記述されたりしています。

そんな中で、藤原良房が白河に別業である「白河殿(しらかわどの)」を造営して以後、白河では別業や寺院の建立が相次ぎました。この「白河殿」が藤原師実の代に「白河天皇」に献上されたのですが、この地に白河天皇は師実実兄の「大僧正覚円」を別当とした「法勝寺」を造営します。これに引き続いて寺院の建立があり、六勝寺となりました。

まだまだ続きます。白河天皇は退位後の寛治4年(1090年)頃に覚円の僧房を御所(白河泉殿)とし、続いて永久3年(1115年)に「白河泉殿」を改築して「白河南殿」を造営、更に元永元年(1118年)にはその隣接地に「白河北殿」を新造して2つの御所を行き来しながら院政を行いました。このように「白河」という地名が確立してきました。

この時代、「白河」が日本の政治の中心地だったんですね。白河上皇は御所を2か所も作るなど、時の権力をほしいままにした人です。しかしその後の治承・寿永の乱で「白河」の地は荒廃してしまいます。

鎌倉時代に入ると、「白河」の中心部は「岡崎」と呼ばれるようになり、「後鳥羽上皇」が承元2年(1208年)に「白河」に御所を造営した際に「岡崎御所」と名付けて以後、「岡崎」という呼称が浸透していきます。この時代には岡崎(白河)の住宅地化が進み、もともと白河に含まれていなかった白川の北側の地域も開発されていき、広い地域が白河と呼ばれるようになりました。

室町時代には南白河は「岡崎」の呼称が定着し、「白河」という地名は白川の北側の「北白川」を指すようになっていきました。現在で言えば銀閣寺の辺から北の一乗寺辺りぐらいまでの地域です。

これが現在でも引き継がれており、「北白河」は「北白川」となり、「南白川」は「岡崎」と呼ばれています。京都では最初は対になっていた地名の名前が変わって、対にならなくなった地名が残ってます。地図で「北白川」を見ると、「南白川はどこ?」と聞かれたり「西陣があるのに何で東陣はないの?」とか。

前置きが長くなりましたが、「白川南殿跡」を訪れます。

上にも書きましたが、嘉保2年(1095年)に「白河上皇」が建てた「白河南殿」は白河泉殿や白河御所と呼ばれ,のちに設けられた北殿に対し南殿や南本御所とも呼ばれました。この地は「白河殿」にあった「法勝寺」の西方にあたり,「大僧正覚円(関白藤原師実の兄)」の房舎であったものを「白河上皇」の院御所として改築したものです。敷地の西側には蓮華蔵院の前身となる阿弥陀堂が建立されました。

永久2年(1114年)、白河法皇の御願により、白河南殿内に「蓮華蔵院」が創建されます。「九体阿弥陀堂」は、平正盛が寄進。阿弥陀堂内に安置された「九体丈六阿弥陀」は、平顕盛(たいらのあきもり)が寄進しました。永久5年と保安3年(1122年)2つの塔を建立。大治4年(1129年)、白河法皇は三条西殿で崩。大治5年、鳥羽上皇が白河法皇追善供養として蓮華蔵院に三重塔を建立しました。

鎌倉時代まで寺院があったのですが、室町時代、応仁・文明の乱(1467年)で荒廃してしまいました。

白川南殿跡 No2

疎水に架かる「熊野橋」から一本東側にある「東山通り(東大路通り)」を見ます。夕暮れ時なので、自動車がヘッドライトを点け始めています。

白川南殿跡 No3

「熊野橋」から疎水の南岸を見ると、なにやら石票らしきものが確認できます。

白川南殿跡 No4

到着しました。間違いなく、「白川南殿跡」の石票と案内板です。

白川南殿跡 No5

白河天皇は子・堀河天皇、孫・鳥羽天皇、曾孫・崇徳天皇と3代にわたって幼帝を擁し、43年間もの間、政治の実権を握りました。ここで院政を敷き、天下をほしいままにしたのです。白河法皇が「天下の三不如意―賀茂川の水、双六の賽、山法師」と嘆いたのも、それ以外のすべてのことは自らの意思のままになるということを意味しています。

そういう意味では、比叡山の山法師は強かったんですね。天下の法皇でも手を焼いているということですね。

白川南殿跡 No6

残念ながら、案内板は年月のために記述が見えづらくなってしまっています。

白川南殿跡 No7

熊野橋から西に歩いていくと、「白河南殿」のもう一つの史跡があります。「株式会社ファルコバイオシステムズ」の前です。

白川南殿跡 No8

敷地の中になるのですが、史跡が保存されています。

白川南殿跡 No9

説明書きと、発掘された遺構の一部です。

白川南殿跡 No10

雨落溝に使用されていた石材です。

白川南殿跡 No11

「白河南殿」は水石風雅なところで「白河泉殿」とも呼ばれたりしています。

「白河南殿」の「阿弥陀堂」は、平正盛によって建てられ鳥羽上皇に寄進、その中の「九体丈六阿弥陀」は、平顕盛が寄進、先日紹介した「得長寿院」は、平正盛の子の忠盛が寄進、忠盛の子の清盛は、後白河法皇に蓮華王院を寄進と平家の力が強大になっていく時期です。戦火や天変地異で失われてしまったのがとても残念です。

アクセス

  • 京都市バス「丸太町京阪前」下車、徒歩5分

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