若宮八幡宮 (京都市下京区) 源義家誕生の地

源氏の館

京都市下京区にある「若宮八幡宮」です。「若宮神社」、「若宮八幡宮」と、「若宮」とつくところはたくさんありますね。以前にも書きましたが、分祀して新しい社を創祀するときに「若」と名前を付けることが多かったようです。

ここの「若宮八幡宮」は東山区の五条坂にある「若宮八幡宮」のもともとの鎮座地でした。旧地にお社を建てて、また「若宮八幡宮」としたんですね。

また、ここは「八幡太郎源義家誕生地」と石碑が立っている通り、「源義家」の誕生地だと伝わります。(他にも「誕生地」を名乗るところがあります。)

まずは行ってみます。

若宮八幡宮・源義家 No2

この、前の通りは「若宮通り」といいます。通りの名前もいろいろと変遷したようです。

若宮八幡宮・源義家 No3

「若宮八幡宮」の前です。写真右の「若宮八幡宮」と刻まれた石碑の左面に、写真を取り忘れましたが、「八幡太郎源義家誕生地」と刻まれています。

若宮八幡宮・源義家 No4

「若宮八幡宮」の神額です。

若宮八幡宮・源義家 No5

駒札が建てられています。

「若宮八幡宮」は最初、平安時代の天喜5年(1058年)、第70代「後冷泉天皇」の勅によって、「源頼義(よりよし)」が邸内(西洞院六条)に勧請したのが始まりです。左女牛(さめがい)西洞院六条にあったので、「六条左女牛(さめがい)八幡」、「六条左女牛若宮」、「六条八幡」、「左女牛八幡」などとも呼ばれました。

若宮八幡宮・源義家 No6

こじんまりとした八幡宮で、とてもきれいに手入れがなされています。

若宮八幡宮・源義家 No7

手水鉢です。

若宮八幡宮・源義家 No8

「若宮八幡宮」の由来が手書きで書かれています。

若宮八幡宮・源義家 No9

保延6年(1140年)、「石清水八幡宮」が火災に見舞われたときに、神霊がこの「若宮八幡宮」に遷されたとの風評により、神威が高まります。「石清水八幡宮」といえば、当時、皇室からは遠国の「宇佐神宮」に代わり「二所宗廟」の1つとして崇敬されるとともに、京都の「裏鬼門(南西)」を守護する王城守護鎮護の神として「鬼門(北東)」の比叡山「延暦寺」とともに重要視されていた神社です。「源義家」が「石清水八幡宮」で元服して「八幡太郎」と号したこともあって、特に源氏が武神として信仰していました。ここで生まれたといわれる「源義家」は父「源頼義」とともに、永承6年(1051年)に始まった「前九年の役(~1062年)」を平定し、承徳2年(1098年)には多くの功績によって「白河法皇」の意向により院の昇殿を許された、当時の武将の中の武将というスーパースターみたいな人でした。

若宮八幡宮・源義家 No10

本社です。金箔の飾りがとてもきれいです。

若宮八幡宮・源義家 No11

ご神体が拝めます。

「若宮八幡宮」は鎌倉時代の文永11年(1274年)に焼失していますが復興し、室町時代に隆盛を極めました。足利歴代将軍の崇敬も集め、社域、社領を拡大したのですが「応仁・文明の乱(応仁元年1467年-1477)」で荒廃してしまいます。
安土・桃山時代、天正12年(1584年)太閤秀吉により東山の御旅所に移転させられます。そして、天正16年(1588年)東山の「方広寺」の北に再移転されます。慶長10年(1605年)また移転となり、現在の「五条坂」に遷座しました。もう無茶苦茶ですね。

その後、この土地は「西本願寺」の寺域となっていたのですが、旧地として小社がありました。江戸時代になって町内の住民によって小社は「若宮八幡宮」として創祀されました。これが現在の「若宮八幡宮」です。

若宮稲荷大明神

同じ境内に「若宮稲荷大明神」があります。

若宮八幡宮・源義家 No12

「稲荷大明神は」元来は五穀豊穣を司る神様でしたが、時代が経るにつれて、農業だけではなく、「商売繁昌」や「産業興隆」といった商業や工業をつかさどる神としても崇敬を集めます。

若宮八幡宮・源義家 No13

そこで、「若宮八幡宮」の前に通っている「若宮通り」のことを少し見てみましょう。

少し前にBlogに書いた「蛭子神社」の時に見つけたBlogの中にも記述がありました。

下京での”若宮通”は、中京では”釜座”と通り名が変わる。(下京区)
(その一)
平安京の時代には無い道路で、天正18年(1590)豊臣秀吉により、現在の新町通(旧・町尻小路)と現在の西洞院通(旧・西洞院大路)との中間に新設された。
中京では”釜座通”と呼ばれ、下立売通(京都府庁前)から三条通迄。
下京では”若宮通”と呼ばれ、高辻通”から七条通迄。
”若宮通”の通り名の変遷。
(その二)
若宮八幡宮の現在場所(六条通若宮通)には平安時代は源氏六条館跡が在り、源の義経の館も近く在ったと伝えられている。
其の後、秀吉により京都改造(御土居築造・本願寺の寺内町形成)等に依り、通り名も”菊屋町通”や仏具職人の多い”仏具屋町通”と変わるも、現在の”若宮通”に最終的に成ったのは幕末の天保以降とのこと。
参考:大正15年の戸籍簿では御前通仏具屋町通の名称で受理記載済み。
(平成19年2月19日 YO記)

若宮通り

「西本願寺」と「東本願寺」に挟まれ、菊屋や仏具屋が多かった通りなので、「稲荷大明神」が祀られているのも、よくわかることですね。

若宮八幡宮・源義家 No14

古くは「堀川館」など「源氏」の邸宅がたくさんあったこの辺りも、応仁・文明の乱で荒廃した後は一般庶民が住む下町として現在も続いています。武将「源義家」にあやかって、一度「若宮八幡宮」にお詣りしてください。あなたも「殿上人」となれるかもしれませんよ。

アクセス

  • 京都市バス「西洞院六条」下車、徒歩5分

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