光秀亡き後
ここしばらく、Blogで扱う話題があっちこっちに飛んでますが、今回は少し前に書いていた「福知山」散策の続きです。
NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」が始まる前の令和元年12月、観光客が訪れる前に福知山を散策しました。なんせ人が多いのが大嫌いで、「待つこと」ができない「いらち」なので、放映が始まって人いっぱいになると行く気が萎えてしまいます。
なので、年が変わる前のギリギリのときに福知山を散策しました。「福知山城」や「明智藪」を見学して、市内をウロウロ。商店街などで買い物をしながら福知山散策の大きな目的の一つである「御霊神社」に向かいます。
「御霊神社」と聞くと、京都市内のもあるし、またそれ以外の色々な所にありますよね。「御霊神社」が創建されるご由緒には様々な理由があるのですが、一番多いのが特定の人物の「御霊」や「怨霊」を鎮めるための性格を有するということです。
一番よく令に例えられるのが「菅原道真公」のみたまを鎮めるために始まった「天満宮」でしょうか。雷神となった道真公のみたまを鎮め、落雷や天変地異が起こらないようにと、全国各地に創建されています。さかのぼると平安時代の「御霊信仰」に行きつくようで、「政治的に失脚した者や、戦乱での敗北者などの霊が、その相手や敵に災いをもたらす」という思想からはじまっています。
当然、福知山にある「御霊神社」は「明智光秀公」のみたまを鎮めるための神社でもあるわけで、歴史の中では「逆賊」である彼を福知山の人々は「御霊」として祀っているんですね。光秀公は福知山においては善政を行い庶民に広く受け入れられていたようです。
「御霊神社」は「御霊公園」と隣接しているのでそこを目指したのですが、地図を見ると途中に「浮世小路」と何かしゃれた名前の所があります。なんじゃろなと見に行ったのですが、夜の歓楽街でした。ん~、見当はずれ。
で、「御霊公園」につきました。
公園の中に「御霊神社」の入り口がありますね。
思っていたよりも立派な神社でちょっとびっくり。
真正面から。
金色のききょう紋が輝いています。
これまた立派な鳥居。神額に屋根を付けるのがこの地域の流儀なのでしょうか。「三木稲荷社」もこうなってましたね。
「御霊社」の神額です。
もともとは「宇賀御霊大神」を祀っていたところに、光秀公が合祀されたようです。
手水舎です。
立派な手水鉢。
よく見ると、こんなところにもききょう紋があります。
大きな石碑なんですけど、個人名がずらずらとあるので、神社の改修などに寄付をした人々の名前ではないでしょうか。
さて、石段を上がって境内に向かいます。
弐の鳥居の神額です。逆光で見えにくいですが「御霊神社」とあります。
拝殿にやって来ました。
正面の瓦にも金色のききょう紋があります。
ささ、お詣りを。
やっと中が見えました。
向こうに本殿が見えますね。
でっか。
さて、境内を回りましょう。
まずは拝殿前にあった、七五三の絵馬です。
拝殿のすぐ隣に小さなお社があります。
「包丁刃物社」とあります。よく見ると、白熱電球が灯りとされてますね。なんかほのぼのしますよ。
こちらにはちょっと大きなお社があります。
神額をよく見ると「堤防神社」とあります。
「堤防神社」の説明書きです。光秀公も由良川の治水に力を入れていましたね。この神社は昭和59年の創建だそうです。
と、その横に歌碑が。
免税と決めて光秀名を残し 汀亭
とありますが、「汀亭」って誰?
またまた横の方に「叶石(かなえいし)」。
「叶石」は「悲願成就」の石だそうです。
「さざれ石」ですね。
立派な建物があるので中をのぞくと...
摂社がずらっと鎮座しています。
その横に見える「御霊神社」の本殿です。
本殿にある立派な浮彫。鷹(天)を抑えるという意味でしょうか。
反対側には蜘蛛(地)を抑えている浮彫です。
「筆塚」もあります。
平成14年に建立されたそうです。
教育委員会の「御霊神社」についての説明書きです。
南西の角にも出入り口があるので、こちらから退出しましょう。
こちらは昔ながらのたたずまいですね。
冒頭にも書きましたが、御霊神社はある特定の人物のみたまを鎮めるための神社で、福知山の「御霊神社」は「明智光秀公」が祀られています。でも、福知山の地で善政を行ってきた光秀公は丹波の地を愛していたでしょうし、「御霊」となって災いをもたらすことなんてないでしょう。でも、「御霊神社」として光秀公を祀ることにより、福知山の地と光秀公の深い関係性を後世に残しているという点で、「御霊」として残されてもそれはそれで良かったのでしょう。
さて、福知山市内をいろいろと散策しましたが、まだもう一ヵ所、どうしても行きたいところがあります。「麒麟がくる」とは関係がないんですけど、前から気になっていたところです。
一つ前の福知山の記事↓
アクセス
- JR福知山駅から、徒歩約15分