麒麟がくる その後の光秀公 胴塚

光秀公 その死後

NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』も、とうとう来週が最終回。

本能寺に討ち入り、山崎の合戦に敗し、明智藪で討たれて亡くなるまでがドラマでしょうか。

その後の光秀公はどうなった?

これは諸説があるんですけど、その首は「粟田口」にさらされた後、その付近に埋められ、首塚だけが移転して、現在の「梅宮社(東山区梅宮町)」になっているというのが一番有力な説です。

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その他にも、家臣がその首を亀岡市の「谷性寺」に運びそこで供養したとの言い伝えや、実は死なずに「南光坊天海」として「徳川家康」につかえたとかの説があります。

ききょう寺 NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」には多分登場しないであろうと思われるのですが、「光秀公」の首塚がある京都府亀岡市の「谷性寺(こ...

出生にも謎が多い光秀公ですが、山崎の合戦の後についても謎が多いですね。

で、首の方はよく話題になるのですが、首から下はどうなってしまったの?という疑問もあると思いますので、首から下について探してみましょう。

明智藪の後

光秀公は山崎の合戦で敗退して、滋賀県の坂本城を目指します。その途中、大亀谷街道を越えた小栗栖(小栗栖)の竹藪で落ち武者狩りの飯田氏の手のものに槍で脇腹を刺され、里のはずれで落馬しその地で自刃、家臣「溝尾茂朝(溝尾庄兵衛、溝尾勝兵衛)」の介錯を受けてこの世を去ったというのが一番有力な説です。光秀公は首を灰にして知恩院の境内に埋葬するよう遺言しますが時間が無く、首は知恩院前にそのまま埋葬されます。で、すぐに首は発見されて粟田口にさらされてしまいます。

前回「明智藪」を紹介しましたが、首を知恩院の方に運ぶには「明智藪」から北に進み、もう一度山を越えて京都盆地の方に戻らないといけません。

実は「明智藪」の北の方に、光秀公の首から下を埋葬した「明智光秀公 胴塚」があるのです。

京都市営地下鉄で行くと「小野」が近いでしょうか。「小野」駅から南の方に進むことになります。

麒麟がくる_その後の光秀公_胴塚 No2

旧街道を南に向かって歩いて行くと、西側の山がだんだんと張り出して近づいてきます。で、もうじき山の縁に差し掛かるな、というところに光秀公の「胴塚」があります。ちょうど上の画像の所なんですけど...

麒麟がくる_その後の光秀公_胴塚 No3

北の方から歩いてくると全然わかりません。

麒麟がくる_その後の光秀公_胴塚 No4

行き過ぎて振り返るとわかりました。上の画像ですけどわかりますか。

麒麟がくる_その後の光秀公_胴塚 No5

こんな風になっていました。

麒麟がくる_その後の光秀公_胴塚 No6

ここが「明智光秀公 胴塚」です。

麒麟がくる_その後の光秀公_胴塚 No7

「明智光秀之塚」と刻まれた石柱。

麒麟がくる_その後の光秀公_胴塚 No8

「胴塚」の説明が書かれた駒札です。ただし、「光秀公」の首から下を埋葬した「胴塚」の場所は、この場所ではなくて、この辺りとしかわかっていないようです。

麒麟がくる_その後の光秀公_胴塚 No9

「胴塚」の西側にある山。この山は一部始終を見ていたことでしょう。「光秀公」は討たれてさらし首になったのか、それとも討たれたのは影武者で「光秀公」はどこかで生き延びていたのか。

さて、大河ドラマの方は来週が最終回。どんな結末で有終の美を飾るのやら、楽しみです。

アクセス

  • 京都市営地下鉄「小野」下車、徒歩15分程度

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