光秀、本能寺を目指す
今回は城跡ではないのですが、明智光秀の本能寺攻めで重要だと思われるところを紹介します。訪れたのは亀岡市篠町にある「篠村八幡宮」です。
「篠村八幡宮」は「足利尊氏」の旗揚げの地として有名な神社です。NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』が始まる前は、Webで検索しても「尊氏公」のことしか書かれていなかったのですが、放送が決定したころから「光秀つながり」で紹介するBlogなどが急増。
でも、実際に訪れても「光秀」に関する史料となるような面影は全然ありません。じゃあ、「光秀はここで何をしたの?」ということなのですが、「篠村八幡宮」と「光秀」の最初の出会いは不幸の一言です。
「明智光秀」は「織田信長」に命を受けて、丹波平定に乗り出すのですが、京から丹波に向かう「山陰街道」の「老ノ坂峠」を越えてすぐの「篠村八幡宮」はいきなり戦渦に巻き込まれて社殿が焼失し、社領を損失てしまいます。
で、これが「麒麟がくる」と関係するかというとそうではなく、「光秀」が「本能寺」の「織田信長」に対し謀反の兵を「亀山城」から京に向かわせ、この「篠村八幡宮」で隊列を揃えたとのことです。また一説には、ここで重臣たちに「本能寺」の「織田信長」を討つと打ち明け、戦勝祈願をしたとのことです。
では、「篠村八幡宮」に行きます。
こちらが表参道と呼ばれる旧国道側(南側)の鳥居です。
松の内なので門松があって石柱が見にくいです。
その後ろに「篠村八幡宮」のご由緒書きがあります。
参道のご神木。むっちゃでかい。以前は巨木がたくさんあって森の中のイメージでしたが、台風のために多くを伐採したので、非常に明るいオープンなイメージになりました。
境内の案内図です。
手水舎ですが...
ガチガチに凍ってます。
ここにもご由緒書きがあります。ちょっと見にくくなってます。
拝殿です。
おめでたい正月のお飾りが奉納されています。
本殿の全景です。
真正面から。
残念ながら本殿の中は見えません。
どこの神社もコロナ対策ですね。
コロナといえば、お隣に「乾疫神社」が鎮座しています。
疫病退散をお祈りしました。
境内でひときわ目を引くのが相撲の土俵。
「矢塚」とあります。なんでしょうか?
こちらが「矢塚」です。
『太平記』によると「矢塚」は「足利尊氏」が戦勝祈願の「願文」とともに一本の「鏑矢」を供えたといい、多くの武将もそれに続いて矢を供え、矢がうず高く積み上げられたそうです。「矢塚」は、これらの矢を埋納した場所で、塚上には椎の木が植えられています。
「矢塚」の石碑です。
この椎の木は2代目だそうです。
「矢塚」の隣に朱い神社が鎮座しています。
キツネさんは祀られていないようですが「稲荷神社」のようです。
ご神鏡が見えますね。
そして『麒麟がくる』には関係ないですけど「足利尊氏」の「旗立柳」があります。行ってみましょう。
「旗立柳」は神社の境内からは細い道を一本隔てた北西側にあります。
「旗立柳」の説明書き。(看板の”柳”は昔の”楊”という字です。)
「尊氏公旗立柳」と刻まれたすごく古い石柱。
けっこう大きな木です。この木は昭和初期に接ぎ木されたものですが、代々続いている柳だそうです。
こちらが北側の入り口です。こちらは「旧山陰街道」です。
「山陰街道」側の鳥居。
「篠村八幡宮」の幟です。
寒いので溝の水も凍ってます。
ちょっと「山陰街道」を「老ノ坂」方面に歩いてみましょうか。
「光秀」の兵たちもこの道を歩いて「本能寺」を目指したんですよ。
あのV時の谷が「老ノ坂峠」です。「旧山陰街道」は老ノ坂峠に入るところで現在の国道9号線に合流しています。
「老ノ坂」を越えて、桂川を渡るとすぐそこは都。多分桂川を越えたあたりで「敵は本能寺にあり」と全軍に告げたことでしょう。天下を取りたかったのか、怨恨か、それとも自らが麒麟を呼びたかったのか、「光秀」は「本能寺」まで一気に攻めあがります。
アクセス
- 京都縦貫道「篠IC」より、車で10分程度