小沢蘆庵宅跡・蒲生君平先生仮寓御趾

私の日常風景

毎日、通勤の市バスの窓から眺めている石票があるので、写真を撮りに行きます。

場所は「岡崎道」と「丸太町通り」の交差点です。「岡崎道」といってもあまりピンとこない人が多いと思います。京都民でも「岡崎道」と聞いて、ああ、あこの道かと分かる人は近所の人か、タクシーの運転手ぐらいではないでしょうか。

「岡崎道」は「京都市動物園」の西側を南北に走る道です。平安神宮の東側の道でもあります。北の方に行くと、くろ谷さんの門前に向かう道に出くわします。

私は、通勤途上なので、「熊野神社前」のバス停から丸太町通りを東に歩いて目的の石票に向かいました。

「熊野神社前」のバス停から「岡崎道」のバス停までは、「武道センター」や「平安神宮」の裏側になるので、これと言って何もない、退屈な通りです。しいて言えば「錦林小学校」の前の紅梅がきれいに咲いていたぐらいです。

小沢蘆庵宅跡_蒲生君平先生仮寓御趾 No2

さて、見えてきました。「丸太町通り」と「岡崎道」の交差点です。

小沢蘆庵宅跡_蒲生君平先生仮寓御趾 No3

その手前(交差点の北西角)にある、古い作りの家の前です。歩道より一段高いところに建っています。

小沢蘆庵宅跡_蒲生君平先生仮寓御趾 No4

「小沢蘆庵宅跡」、「贈正四位蒲生君平先生假寓御跡」と二つの石票が建っています。

「小沢蘆庵」は江戸時代中期の歌人で国学者でもあります。大坂生まれで、上洛して「鷹司家」に出仕しました。和歌を「冷泉為村」に学んだのですが、平易な詞でありのままに詠む「ただこと歌」を唱え、破門されてしまいます。「香川景樹」らを指導し,「澄月」,「伴蒿蹊」,「慈延」とともに京都歌壇の四天王とよばれています。国学者としては尊王論を展開しました。京都ではたびたび寓居を移したのですが,晩年はここ岡崎で過ごし、享和元年(1801年)この地で亡くなりました。

「蒲生君平」は江戸時代後期の儒学者で天皇陵を踏査して「山陵志」を著した者、海防論者です。水戸藩勤王志士「藤田幽谷」の「尊王思想」の影響を受けました。著書「山陵志」の中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから現在も用いられる「前方後円墳」という用語が生まれました。

同時代の仙台藩の「林子平」や上野国の郷士「高山彦九郎」と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられます。「奇人」と言っても、現代の「奇人変人」という意味ではなく、「優れた」という意味での「奇人」です。しかし「蒲生君平」は「高山彦九郎」を慕ってその後を追い、陸奥を旅して帰路に「林子平」を訪ねたのですが、「林子平」に粗末な身なりを笑われて、「礼儀も知らず尊大ぶるな」と怒鳴って引き返したという「寛政の奇人」同士の出会いとして有名な逸話があります。この3人は「奇人」として優れた人々ではありますが、逸話を読んでみると、どう見ても「奇人変人」と言われるような逸話が多いです。

この「蒲生君平」は上洛し、「小沢蘆庵」の邸の茶室に滞在していました。

小沢蘆庵宅跡_蒲生君平先生仮寓御趾 No5

現在は「欅 岡崎」というブライダルサロンになっているようです。「蒲生君平」が滞在していた茶室は明治期にどこかに移されたようですが、詳細は不明です。

毎日眺めている風景であっても、何かの機会がないとなかなか しっかりとは見に行かないものですね。今回見に行って、一つやらなければならないことが終わったようで、胸の内がすっとしました。

アクセス

  • 京都市バス「岡崎道」下車、徒歩3分

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