小町通り 小野小町と宮本武蔵

小野小町と宮本武蔵  変な取り合わせですが...

時代も違えば、趣向も違うし、どんな関係があるの?

と聞きたくなりますよね。

共通点は、両方とも「一条小町通り」に関係があるということです。

小野小町 : 小野小町草紙洗水遺跡碑

宮本武蔵 : 諸侯屋敷・一條下り松遺跡碑

小町通りの南端である一条通りの東西の角におのおのの史跡があります。

小町通り

小町通り石碑

京都の人でも、小町通りを知らない人がいます。「名前は聞いたことがあるけど...」というような人も多いです。

小町通りは100mほどしかない短い通りで、とくに有名なものがある通りでもなく、ひっそりと埋もれているような通りです。

新武者小路通り石碑

小町通りの北端は新武者小路通りですが、この通りも短いのでなかなか知られていない通りです。(武者小路通りは別に存在します)

能 「草子洗小町」と「小野小町草子洗水遺跡」

六歌仙の一人である大伴黒主は、歌合で小野小町と対戦することになりました。しかし勝ち目がないと考えた黒主は、歌合の前日に小町邸に忍び込み、小町が対戦のために詠んだ歌を盗み聞きします。
翌日の歌合で、紀貫之を初め歌人たちが居並ぶ中、小町の歌が詠み上げられるますが、黒主は「その歌は万葉集にある歌だ」と小町が盗作をしていると訴えます。その証拠として黒主が取り出した万葉集の草子には、同じ歌がありました。小町の歌を盗み聞いた黒主が、予め書き足していました。
窮地に立たされる小町ですが、黒主の策略と見破り、許しを得てその草子を水で洗います。すると黒主の書き足した歌は消えてしまい、悪事が明らかとなります。黒主は自害しようとしますが、小町はそれをとりなして、祝言の舞を舞います。

これが、能の「草子洗小町」のあらすじです。

残念ながら、この歌合は架空のものであり、史実には基づきません。世代の違う小野小町と大伴黒主を歌合で対戦させたり、紀貫之ら古今和歌集の選者たちを一堂に集めるなど、どう考えても物理的に無理があります。

さて、小町通りの西に、この謡曲の史跡があったそうです。清水が湧き出た井戸があり、草子を洗った水として、井戸の跡には「小野小町草子洗水遺跡」の石碑と駒札が立っていたそうです。西の角は近年駐車場になっており、井戸や駒札はなくなり、最近まで駐車場の角に石碑だけは残っていたようです。しかし私が訪れた時には駐車場はなくなり、何かが建つのか、工事中で地面を掘り返していました。そして、その石碑もありませんでした。工事が終われば石碑は元に戻るのでしょうか。京都の歴史的遺物がまた一つ失われていくのでしょうか。

今現在、Google Mapでストリートビューをみると、駐車場と石碑を見ることができます。でも、ロマンチストな方は見ないほうが良いかもしれません。石碑はごみ収集場所となっており、収集前のごみがうず高く積まれていて幻滅します。

宮本武蔵 下り松はどこ?

剣豪宮本武蔵は、宿敵吉岡一門の数十人と「一乗寺下り松」で決闘をします。有名な一乗寺下り松の決闘ですが、この決闘が行われた場所に異を唱える説があります。

本当は「一条下り松」で決闘が行われたのであって、一条寺下り松は間違って言い伝えられたものだという説です。

「一条下り松」ってどこ?

足利将軍家の剣術師範を務めた吉岡流の道場が一条通り辺りにあったとされています。そして、その裏庭に植えられた松が下り松と呼ばれたということです。宮本武蔵はそこで吉岡一門と決闘したのだという説です。

吉岡直賢が今出川に兵法所を開いたと言われているので、吉岡一門はこの辺りを本拠地としていたようです。

一条下り松遺跡 

小町通りの南端、東側にある「諸侯屋敷 一條下り松遺跡」と書かれた石碑です。とても見くいのですが、字が読めるでしょうか。

一条下り松と八大神社のことを書いたときに、いろいろと調べたのですが、「一乗寺下り松」を間違えて「八大神社の近くの一条下り松」と書いてるサイトのたくさんあること。現代でも、「一乗寺」と「一条」は混同されています。

なので、もともとは「一条下り松」だったのかもしれません。

https://www.kyoto-inf.com/guide-kyoto/2017/07/18/posted-itijojisagarimatsu/

アクセス

  • 京都市バス「一条戻橋・晴明神社前」下車、徒歩1分

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