一条院跡 そして 名和長年戦没遺跡

 一条院跡

京都市上京区の大宮中立売にある「名和児童公園」は「名和長年戦没遺跡」として知られていますが、時代の流れで行くと、「一条院跡」であったことの方が古いです。

京都は歴史が長いので、同じ場所で時間の流れに沿って異なる事件が起きたり、建物が建ったりすることがあります。

まず、「一条院跡」ですが、「源氏物語」で有名な紫式部が、一条天皇の中宮である藤原道長の娘彰子に女房として仕えていたときの里内裏です。彼女の日記の中に出てくる「内裏」とはこの一条院を指します。

平安時代中期、平安京北東に隣接して、里内裏の一条院(平安京左京北辺二坊一町・四町跡)が置かれました。もともと、ここには藤原師輔(もろすけ)の子・伊尹(これただ/これまさ)の邸宅があり、異母弟である為光(ためみつ)に引き継がれ、その後、佐伯公行(きんゆき)が買得し東三条院(藤原詮子:せんし/あきこ)に献上します。東三条院はその子、一条天皇の御所として修造し、長保元年(999年)の内裏焼失後は第66代・一条天皇の里内裏となりました。

一条院は東西2町あり、西側1町が御所、東側1町には財政、物資を調達をする別納(べつのう)がありました。この、別納が中宮彰子の直廬(じきろ:宿泊所)に使用され、彰子に仕えた紫式部もここにいました。一条天皇時代は、紫式部が日記に書いているように、当時の文化人が集まるサロン的な場所となり、とても華やかだったようです。

名和長年戦没遺跡

「名和長年(なわながとし)」って、知ってますか? よっぽど日本史好きの人か、ご高齢の人でないとピンとこないと思います。私も、どこかで名前を聞いたような、どうだったかな? ぐらいの人でした。

「名和長年」は鎌倉時代から南北朝時代初期の武将で、後醍醐天皇を助けた人です。弓矢の達人だったと言われています。また、明治時代からは天皇を献身的に助けたということで、当時の教科書には英雄として紹介され、太平洋戦争開戦直前には石碑が建てられています。

名和児童公園

名和長年戦没遺跡 No17

中立売通りから大宮通りを少し上がる(北行する)とすぐに「名和児童公園」があります。遺跡ですが、鳥居があります。

名和長年戦没遺跡 No2

入口の右手には「此附近名和長年戦死之地」と石碑があります。

名和長年戦没遺跡 No3

左手には「名和長年公遺蹟」ととても立派な石碑です。

名和長年戦没遺跡 No4

公園の奥には、「名和長年公殉節之所」とこれまた、立派な石碑があります。

名和長年戦没遺跡 No5

名和長年は伯耆国(ほうきのくに)名和の豪族です。海運業者とも言われます。

鎌倉幕府の終焉時である、元弘元年(1331年)第96代・後醍醐天皇は、元弘の乱の討幕計画が六波羅探題に察知されて隠岐島に流罪となってしまいます。後醍醐天皇は元弘3年(1333年)隠岐島を脱し、長年は天皇を船上山(鳥取県東伯郡)に迎え、以後討幕に加わります。「船上山の戦い」では、その戦功により伯耆守に任じられました。そして天皇帰洛の護衛も務めます。鎌倉幕府滅亡のあとの建武の新政では近侍の武士となり、記録所、武者所、恩賞方、雑訴決断所などに就き、後醍醐天皇より「帆掛け船の家紋」を与えられます。

建武2年(1335年)、建武の政権離脱後、足利尊氏は新政権に反旗を翻したので、長年は楠木正成、新田義貞らとともに尊氏と戦います。最初は優勢で、一度は尊氏を九州まで追いやりますが、尊氏は形成を立て直し、再度京都に迫ります。長年は、新田義貞らと内野(平安京大内裏跡)で防戦し、大宮(太平記:今回の名和児童公園)、または三条猪熊(梅松論)で討死したと伝えられています。

名和長年戦没遺跡 No6

明治16年(1883年)に正三位を贈られた事を記念して同年に建てられた「贈正三位名和君遺蹟碑」の石標です。碑文は太政大臣公爵三條實美(さんじょう さねとみ)の筆です。

その前に、なにか見慣れぬものが...

名和長年戦没遺跡 No7

昔からの石造りの土台の上に、金属製の箱が。とてもハイブリッドなオブジェです。

名和長年戦没遺跡 No8

石の部分には「大日本國防婦人會」と彫られています。

名和長年戦没遺跡 No9

後醍醐天皇より送られた「帆掛け船の家紋」があります。

名和長年戦没遺跡 No10

金属部分を見ると納得。古い井戸だったんですね。戦時中は、空襲などで火災が起きた場合の防火用井戸だったんでしょうか。現在は災害時の取水井戸となってます。

名和長年戦没遺跡 No11

名和長年の説明が書かれています。

明治時代には天皇制下で名和長年の評価は急に高くなりました。天皇中心の強力な国家を作る目的で、後醍醐天皇を助けた南朝の忠臣として、長年の名前は利用されます。国の英雄として教科書に掲載され、明治16年(1889年)に正三位、昭和10年(1935年)に従一位を追贈されます。そしてこの地は、鳥居が残ってますが、宮が建てられ、英雄を祀る聖地として、一般人は立ち入ることが出来ない場所になりました。

名和長年戦没遺跡 No12

すごく立派な家紋ですね。

名和長年戦没遺跡 No13

欅の木でしょうか。とても勢いがあります。

名和長年戦没遺跡 No14

苔むしてきれいです。

名和長年戦没遺跡 No15

「紀元二千六百年竣工記」とありますから、昭和15年(1940年)ですね。紀元二千六百年記念行事に合わせて何かあったのでしょうか。

名和長年戦没遺跡 No16

反対側の、東側の入り口です。戦後、宮は破却され、聖地は児童公園となり、子供たちが遊ぶところと様変わりしました。

このように現在は、児童公園となっている場所ですが、平安時代には一条院として、文化の最先端であった場所であり、鎌倉時代の後には討ち死にの場所となり、戦前には一般人が立ち入れないような英雄の聖地となっていたなんて、想像がつきませんね。京都には1200年の歴史があるので、同じ場所でいろいろな出来事が入れ代わり立ち代わり、起こっているなんてことがあるんですね。

晴明神社の近くです。一条院や名和長年を思って、訪れてみてください。

アクセス

  • 京都市バス「大宮中立売」下車、徒歩3分

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