粟田口刑場趾 ひっそりと世を見つめる名号碑

「蹴上(けあげ)」はなぜ「蹴上」なの? その2

以前、京都市東山区の「蹴上」が「蹴上」と言われるようになった言われを紹介しました。

 「蹴上」はなぜ「蹴上」? 古い地名には、その場所で起こった出来事が名前の由来になっていることがよくあります。もちろん、古都京都にもその名...

でも、「蹴上」にはもう一つ、「蹴上」と呼ばれる言われがあります。

昔、京都には都への出入り口として「京の七口」という、関所に当たる出入り口がありました。「口」という言葉が使われるようになったのは鎌倉時代の後半からです。室町時代になるとその出入口をはじめとして、幕府、寺社、朝廷(公家)などさまざまな主体が「七口の関」と称される関(関所)を設け関銭(通行料)を徴収するようになります。それによって古文書や記録に「口」という記述がみられるようになります。

豊臣秀吉が天正の地割などの京都改造の一環として、京の周囲を囲む御土居(おどい)を築き、土塁に開いた出入口を「口」としたことが「七口」という表現を一般的なものとする役割を果たしました。このことによって江戸時代に入ると、京の出入口を表す言葉として「七口」という表現がごく普通に使われるようになりました。

「口」は七つあったのか? と思いがちですが、個数が七つあったから「七口」ではなく、昔の行政的な区割りである「五畿七道」の七道へつながるという意味から、「七口」と呼ばれたという説が一般的です。「京の七口」として、七つの「口」を挙げますが、「口」は他にもありました。

さて、京の七口の一つである「粟田口」が今回のスポットです。

「粟田口」は東海道の山科から京都への入口にあたり,古くから街道の要所として発達したところです。現在の場所で言うと、東山三条白川橋から蹴上までの間です。京の七口においても交通量が多く軍事上、重要視されるところです。

その重要視される場所ということで、治安維持の見せしめのために刑場が置かれました。「粟田口刑場」と呼ばれたその刑場は、江戸時代前から存在し、江戸時代には毎年3回この地で処刑が公開され、明治維新までに約15,000人の人が処刑されたと言われます。なぜ15000人という数字が出てくるかというと、刑死者の供養として、京都の各宗派寺院が1000人ごとに供養碑を建てたのですが、その数が明治までに15基建ったそうです。

「粟田口刑場」は粟田口から九条山の峠(日ノ岡峠)に向かうところにありました。

「粟田口刑場」で有名なのが、天王山の戦いに敗れて殺された明智光秀の遺体が晒されたことでしょう。

さて、「蹴上」の由来ですが、処刑を拒む受刑者を蹴り上げながら無理やり御仕置場(処刑場)まで連れて行ったことから、この「蹴上」という名前が付いたという言われです。

なんとも、怖い、また直接的な言い方なんでしょうか。昔の処刑方法は、市中引き回しの上、磔(はりつけ:板や木に張り付けて槍などで突き殺す。)、獄門(斬首して3日間首をさらす。死体は刀の試し切りに使う。)、火刑(火をつけて焼き殺す。火あぶりにする。)でしたから、それはそれは囚人たちも嫌がったことでしょう。それまでも公開処刑が行われているので、自分がどんな目に合うかはよく知っていたでしょうし。それと、やはり冤罪もけっこう多かったそうです。無実の罪で殺されるなんて、死んでも死にきれないですね。

粟田口

粟田口の東の端が、現在の蹴上に当たります。京都市営地下鉄「蹴上」駅がその場所です。ここから、罪人たちは九条山の方に蹴られながら上がっていったのでしょう。

粟田口刑場趾 No2

京都市営地下鉄「蹴上」駅の1番出口です。

粟田口刑場趾 No13

真正面には「蹴上浄水場」があります。では、九条山の方(上り)へ歩いていきます。

粟田口刑場趾 No14

「蹴上浄水場」の東の端にある入り口です。ここから峠の頂上方向にかけてが「粟田口刑場」でした。

粟田口刑場趾 No3

上の画像の道の右側にあたる山のあたりでしょうか。ここで、罪人たちは公開処刑されて、その首が道沿いにさらされたということです。

粟田口刑場趾 No4

九条山の峠(日ノ岡峠)の頂上から蹴上方面を振り返ります。頂上に掛かっている橋が、東山ドライブウェイにつながる道なのですが、その橋から向こう側が「粟田口刑場」だったそうです。

「蹴上浄水場」の東側、東山ドライブウェイに続く道の西側、かつ三条通りの南側で、今は山の斜面しか見えません。

粟田口刑場趾 No5

頂上には「粟田口刑場」の説明版が建てられています。

粟田口刑場趾 No15

九条山の日ノ岡峠は昔から急な峠であったため、何回か切り崩したり、道を付け替えたりしているので、上の画像の天保13年頃とは地形も風景も変わっています。現在、道(三条通り)は東西方向に走っていますが、上の画像では南北方向です。

粟田口刑場名号碑

峠を越してもう少し山科側(東)に行くと、「粟田口刑場名号碑」があります。

粟田口刑場趾 No6

三条通りの反対側から撮った画像です。道からは少し小高い位置にあります。

粟田口刑場趾 No7

階段があるので登ってみました。

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粟田口刑場は明治維新後に廃止され、跡地付近には明治4年(1872年)京都府勧業掛所管の「粟田口解剖場」が置かれました。医学教育のため、明治5年(1873年)に4刑死体が解剖され、医師ら数百名が参観したそうです。同年には青蓮院内の京都療病院(京都府立医大病院の前身)に仮解剖所が設置されたので移転となりました。

この「粟田口刑場名号碑」は「粟田口解剖場」時代に建てられたものです。

粟田口刑場趾 No9

雑草が生い茂らないように手入れされています。

粟田口刑場趾 No10

「南無阿弥陀仏」と彫られています。

粟田口刑場趾 No11

「萬霊供養塔」と彫られています。粟田口刑場趾 No12

山科、日ノ岡側から九条山を見るとこんな風景です。以前は京阪電鉄の京津線(けいしんせん:大津・石山まで)が通っていたのですが、現在は京都市営地下鉄と相互乗り入れのような状態で地下を走っているため、普通の峠道になってます。

この辺りにたくさんあった供養のための石碑や何かは、明治維新の廃仏毀釈によって、道路の側溝や石垣の工事用材として使われてしまい現存しているものが少ないそうです。日ノ岡にある「粟田口名号碑」のように道路改修工事の際に一部が出土して、修復、改修されたようなものもあります。

「粟田口刑場跡」に行っても、何もありません。ただ、鎮魂の碑がひっそりと建っているだけです。罪人だけではなく、権力者がその体制を保つために見せしめとして殺され、晒された人たちがたくさんいたことは記憶にとどめておかなくてはいけないと思います。

アクセス

  • 京都市営地下鉄「蹴上」下車、徒歩10分
  • 京都バス「九条山」下車、徒歩1分

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