此附近加賀藩邸跡 今は御池通り

ひっそりとたたずむ石碑

御池通りを東に向かって行くと、鴨川の「御池大橋」を越えたところでどん突きになるのですが、「御池大橋」の手前にも小さな橋があります。車で走ると橋があることさえ気づきません。この橋は「御池橋」と言って「高瀬川」に架かる橋です。

この「御池橋」の南東側に「加賀藩邸跡」の石碑があります。

江戸時代の初期に橋の西側に当たる場所に加賀藩邸が建てられて「御池橋」は「加賀橋」と呼ばれていました。

「加賀藩」といえば藩主は代々「前田家」で「加賀百万石」といわれた大きな大名です。前田家は外様大名ですが徳川家との姻戚関係が強く、大名中最大の102万5千石を領していました。

江戸時代を通して「加賀藩」には大きな変動はなく、有名なのは第4代藩主(加賀前田家としては5代)となった「前田綱紀(つなのり)」で自ら学問芸術を愛好して「文治政治」を行いました。東寺の古文書を整理するなど京都との関係は深く、豊富な書籍が収蔵された加賀藩の書庫は、「新井白石」から「加賀藩は天下の書府」と礼賛されています。

加賀藩邸は文化的に京都と加賀を結びつける上に大きな役割を果たしました。

此附近加賀藩邸跡 No2

「高瀬川」に架かる「御池橋」です。デザインが古いですね。「高瀬川」は人工の運河なので流れは静かです。

此附近加賀藩邸跡 No3

歩道を歩いていると、橋であることがよくわかります。親柱の横に「此附近加賀藩邸跡」と書かれた石柱と駒札があります。残念ながら、道行く人々は気づきもせずに通り過ぎてます。

此附近加賀藩邸跡 No4

橋の西側には建てられなかったようですね。だから「此附近」と付いているのでしょう。

此附近加賀藩邸跡 No5

加賀藩前田家の藩邸は,天明8年(1788年)焼失し,その後再築されています。この場所から南側の高瀬川沿いには、幕末の動乱期にいろいろな事件が起こり、その場所には石碑や駒札が立てられており、見て回るとなかなか楽しいです。

幕末の加賀藩はというと、「綱紀」の「文治政治」の伝統を受け継いだ結果なのか、激動する政局の中で活躍することは、あまりありませんでした。慶応2年(1866年)「鳥羽伏見の戦」に出兵したのですが,幕軍の敗北を知りすぐに引き返しています。「戊辰戦争」には官軍側について北越で戦っています。「加賀藩邸」は明治維新後は上地され,一時は府知事邸となっていましたが,太平洋戦争末期に建物疎開で御池通りが拡張された時に御池通の一部となって消滅しました。今は石碑と駒札で歴史に刻まれています。

アクセス

  • 京都市バス「京都市役所前」下車、徒歩3分

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