七条仏所跡 仏の本様

定朝のアート工房跡

京都駅の近所なんですけど...

はっきり言って、何にもありません。 駒札だけです。

通りすがりに見るぐらいですかね。わざわざ行く所ではありません。

七条仏所跡 No2

「七条高倉」の交差点の南東角です。この家は一般の民家であって、「仏所跡」ではありませんよ。ご迷惑のかからないように。

七条仏所跡 No3

でも、敷地の中に駒札が建っているんですよね。「仏所」に関係する方が住まれているのでしょうか? 不明です。

駒札には

七条仏所跡(しちじょうぶっしょあと)

この地は、平安時代中期に活躍した仏師(仏像彫刻家)定朝をはじめ、その一族・子弟・子孫が長く居住して彫刻に励んだ「仏所」のあった所で、「七条仏所」「七条大仏所」と呼ばれていた。
定朝は、平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像(国宝)の作者で、「和様」と呼ばれる優れた彫刻様式を完成したほか、卓越した技術によって僧綱位の法橋を与えられ、仏師の共同組織として仏所の制度を整えるなど、仏師の社会的地位の向上に努めた。これらのことから、定朝は我が国における仏師の祖と仰がれている。
鎌倉時代に入って、この仏所から運慶・湛慶・快慶らが相次いで現れ、剛健な、また写実的な多くの名作を世に送った。しかし、室町時代に入って、彫刻は全体としてふるわず、この仏所も二十一代康正のとき四条烏丸に移転した。その後、幕末の兵乱で火災に遭い、仏所の遺構は完全に失われた。

と記されています。仏師「定朝」は藤原道長の庇護を受け、当時の公家たちにもてはやされた「和様」と言われる鎌倉時代まで一世を風靡した作風を作り上げた人です。作風だけではなく、それまでは一本の木を素材とする「一木造り」であったのを、数本の木を組み合わせて造る「寄木造り」という技法を考案し、複数の仏師が分業で同時に制作に掛かり、大きな仏像であれ制作期間を大幅に短縮することが可能となりました。この定朝の工房は、多くの仏師を抱えて、大規模な工房であったようです。多くの仏師をまとめるということから「仏所」という組織を作り、その地位向上にも努めています。

「仏所」の歴史を見てみると、奈良時代に機構が整備され,「造仏所」という仏像の制作を行う官営の組織が作られたのが始まりです。しかし、平安時代にはこの組織は廃止され、代って「定朝」が興した私的な「仏所」が開設されていきます。この「仏所」は公家,貴族の保護を受け,造仏はもとより造寺も行ったそうです。この「七条仏所」の後に、弟子らが「六条仏所」や「三条仏所」を興しましたが、「七条仏所」に押されて長続きはしませんでした。

平安時代中期にはこの辺りはそんなに栄えていた場所ではなかったようですし、公家や貴族がパトロンとして付いていたようなので、静かな郊外にできたアート村みたいなところだったんでしょうかね。

アクセス

  • 京都市バス「七条高倉」下車、徒歩3分

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