白河北殿址 六勝寺跡巡り その9

 武家政権への転換期

平安時代の後期に、この世をほしいままにした「白河上皇」は「白川南殿(白河泉殿)」だけでは飽き足らず、元永元年(1118年)その北側に「白河北殿」を造営しました。「南本御所」に対して「北殿」や「北新御所」と呼ばれました。

その後は「鳥羽法皇」が移り住んだり「上西門院」の御所となったりしていましたが,最後は保元元年(1156年)に「崇徳上皇」が移り住み,「保元の乱」の勃発とともに「平清盛」らの軍勢によって焼失してしまいました。

「保元の乱」ですが、「鳥羽上皇」の崩御の後、「崇徳上皇」と「後白河天皇」の皇位継承争いと、摂関家の内紛になるのですが、ここには父子、兄弟、親類間の複雑な愛憎が根底にあります。非常にややこしいどろどろとした人間関係の中で起こった戦乱でした。

「崇徳上皇」は藤原頼長、源為義、平忠正らと共に「白河北殿」に集結します。これに対し、「後白河天皇」方の平清盛、源義朝らは夜襲攻撃をかけますが反撃にあって一時撤退、北殿西隣にあった「藤原家成邸」に火を放ちます。この火災は「白河北殿」に類焼し、崇徳上皇方は総崩れになって敗走します。

結果、「崇徳上皇」は讃岐国への配流となり、長寛2年(1164年)その地で没しました。死後、京都では天変地異や「後鳥羽上皇」に近しい人々の死が続き、その怨霊が恐れられたため、「後白河上皇」は、「崇徳上皇」の「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、「成勝寺」では怨霊を鎮めるための「御八講法要」を行い、「白河北殿」跡地のこの付近に、崇徳上皇の霊を鎮めるために「粟田宮」を建立したということです。

この「保元の乱」により、武士が政界に台頭するようになり、以後700年間も続く武家政権の始まりとなります。

白河北殿址 No2

「丸太町通り」の南側にある「京都大学熊野寮」です。

白河北殿址 No3

右側の表札を見てわかると思いますが、ここの門や塀はとても古いものです。

白河北殿址 No4

「白河北殿」址の石票は「京都大学熊野寮」の北西角にあります。

白河北殿址 No5

塀の中に隠れて少し見にくいです。道行く人は関心も示さずに行きすぎるんでしょうね。「白河北殿」は通りを挟んだ、北側にもまたがっていました。

白河北殿址 No7

この塀は私が小さいころにはもうすでにありました。

白河北殿址 No6

石票自体はまだ新しいですね。

六勝寺の跡、白河殿の跡をめぐると、院政時代はこの岡崎あたりが日本の政治の中心だったと再認識するのですが、「跡」ばかりで実際に何かを目にすることがないのが残念です。

アクセス

  • 京都市バス「熊野神社前」下車、徒歩3分

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