大政所御旅所 助正を導く蜘蛛の糸

祭りの主役は神輿

京都市下京区にある「大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)」に行きました。

「大政所」とあるので、太閤・豊臣秀吉の生母である「仲」と関係があるのかと、一瞬思いますが、全然関係はないようです。

「大政所御旅所」は、かつては「祇園会(ぎおんえ:祇園祭)」で三基の神輿のうちの二基、「素戔嗚尊(すさのをのみこと)」がのる「中御座(なかござ)」の神輿と「八柱御子神(やはしらのみこがみ)」がの乗る「西御座(にしござ)」の神輿が安置される御旅所でした。この二基の神輿を「大政所」と呼んでいました。

もう一基の「櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)」がのる「東御座(ひがしござ)」の神輿は烏丸竹屋町にあった「少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ)」に安置されていました。

さて、この「大政所御旅所」の所以ですが、平安時代の天延2年(974年)、東洞院高辻に住んでいた「秦助正(はたのすけまさ)」の夢に、神人が現れご宣託がありました。それは「汝の家を影向の地とせん 速やかに朝廷に奏上せよ」というもので、翌朝「助正」の家の庭にある狐塚から蜘蛛の糸が祇園社までつづいていたので朝廷に奏上したところ、第64代「円融天皇」も同じ夢を見たとのこと。以後、「助正」の自宅が「祇園社」の御旅所になり、「大政所」といって神殿が造られ、「助正」は神官に命じられました。

この「大政所御旅所」は安土・桃山時代、天文5年(1536年)に焼失しています。また天正19年(1591年)、「豊臣秀吉」の都市改造に伴い、「大政所御旅所」は現在の四条寺町に移転させられました。その後に「大政所町」鎮護の社として現在地に小祠が建てられています。「秦」家は、神主職を継承したのですが、13代以降に断絶しました。近代、「狐塚(蜘蛛塚)」も取り壊されています。

では行ってみましょう。

場所は、京都の中心部である「四条烏丸」を少し下がったところです。

大政所御旅所 No2

これまた、すごいところでしょ。「烏丸通り」に面してるんですけど。

大政所御旅所 No3

大きなビルとビルのはざまです。

大政所御旅所 No4

昔は、平屋の住宅街にあったのでしょうけど、都市の発展とともに、ビルとビルの間に挟まれてしまいました。

大政所御旅所 No5

「八阪大神」の神額です。とっても分厚くて存在感がありますよ。「八坂」ではなく「八阪」となっているんですね。

大政所御旅所 No6

「八坂神社 大政所御旅所舊跡」の石碑。

大政所御旅所 No11

敷地があまり広く取れないのか、ぎゅうぎゅうに詰まってます。

大政所御旅所 No7

駒札があります。

大政所御旅所(おおまんどころ おたびしょ)
ここはかつて、祇園祭(八坂神社の祭礼)の神輿渡御のとき、三基の神輿のうち、大政所(素戔嗚尊)神輿と八王子(八柱御子神)神輿の二基が安置される場所であった。
残る少将井(櫛稲田姫命)神輿は烏丸竹屋町にあったの少将井御旅所に渡御していたが、天正十九年(一五九一)に豊臣秀吉により、これら二つの御旅が四条寺町に移築・統合されて、現在の御旅所となった。
天延二年(九七四)に、この地に住んでいた秦助正が、夢の中で八坂大神の神託を受け、また自宅の庭から八坂神社まで蜘蛛が糸を引いているのを見て、朝廷にこのことを奏上した結果、助正の家が御旅所となったという。
天文五年(一五三六)に騒乱のため焼失したが、その後に町の人々が小祠を建て、八坂大神を奉祀し、大政所町鎮護の社として毎年七月十六日を例祭日と定めたという。今でも神輿還御の時には神輿が立ち寄り、神職が拝礼する。

大政所御旅所 No8

当然、通常時は参詣できません。

大政所御旅所 No9

祇園祭のときにお詣りしましょう。

大政所御旅所 No10

チラッとだけ見えてます。

一年の中では、「祇園祭」のときに賑わい、その他の時期には閑散としていますが、毎日、表の「烏丸通り」の車の流れを見ているようです。

アクセス

  • 京都市バス「烏丸松原」下車、徒歩2分

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