会津藩殉教者墓地(会津墓地) 遠く離れた異郷の墓地

幕府からは はめられ、最後は朝敵となって…

今日は幕末の京都の話です。

訪れるのは「会津藩殉教者墓地」です。場所は「くろ谷さん(金戒光明寺)」です。境内にも「会津墓地」を示す順路案内があります。

「会津藩」と京都のつながりは、なかなか想像がつきませんね。場所も離れているし、京都に朝廷はあったとしても、政治の要所である江戸幕府は東京ですし。でも「会津殉教者墓地」には300を超える会津藩関係者のお墓があります。会津といえば福島、栃木、新潟あたりになりますので、遠く異郷の地で300名以上が亡くなっているというのは、歴史的には大きな出来事でしょう。

「会津藩」が京都に出てくることになった直接の原因は「京都守護職」の設置です。江戸末期には、幕府が弱体化したことによって尊王攘夷派の志士らが京都に集まり、過激派による天誅という要人暗殺や、治安の悪化に便乗した押し込みと言われる強盗が横行し、当時の警察組織であった「京都所司代」や「奉行所」だけでは治安維持ができなくなっていました。

そこで江戸幕府は京都の治安維持を目的として「京都所司代」の上部機関である「京都守護職」を設けることになります。で、誰が引き受けるの?ということになるのですが、白羽の矢が立ったのは会津藩主「松平容保(たかもり)」。文久2年(1862年)「京都守護職」に就任するのですが、その時なんと28歳という若さ。容保は時疫にかかって病の床にあり、初め将軍「徳川慶喜」・越前福井藩主「松平春嶽(しゅんがく)」からの再三の就任要請を断っていたのですが、会津藩祖「保科正之」の「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を持ち出し「土津公ならばお受けしただろう」と言い詰めよられ、辞する言葉もなくなり奉命を決心するのでした。

やっぱり、はめられてますよね。浦賀、蝦夷地の警備の任にあったことで、会津藩の財政は既に窮乏状態にあり、また、家臣も就任反対で意見が一致していたそうです。

で、しかたがなく、会津藩主「松平容保」が文久2年閏8月1日(1862年9月24日)、「京都守護職」に就任します。本陣を「金戒光明寺」に置き、原則的には藩兵1,000人が京都に常駐して、1年おきに交替することとしました。

「京都守護職」は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役(配下の京都見廻組も含む)を配下に置いての組織となったのですが、それでも手が回りきれなかったので、「守護職御預かり(非正規部隊)」として「新選組」をその支配下に置き、治安の維持に当たらせました。

元治元年(1864年)の正月には、「京都守護職屋敷」が完成します。場所は現在の京都府庁のあたりで、府庁を入ったところに「京都守護職屋敷跡」の石碑があります。(そのうち紹介します。)今の「京都府庁」・「第二日赤病院」・「梅屋小学校(平成7年廃校)」におよぶ広い地域の民有地3万坪(99,000㎡)を買収して建てられました。そらもうとてつもなく広い土地ですよ。財政が破綻寸前だったのにここまでやるとは。

まだ、あります。千本下立売東北角に「会津藩邸屋敷(会津藩御用屋敷)」、東聖護院村には3万7千坪の土地を買収して「会津藩邸」と「練兵場」がつくられてますので、気合は入りまくりなんですけど、よくもまあそんだけの費用を捻出できたものです。

「京都守護職」の働きは目覚ましく、攘夷派、倒幕派の過激な志士を摘発、追放し、元治元年(1864年)には守護職配下の新選組による「池田屋騒動」、その後の「禁門の変(蛤御門の変)」の勝利などで京都の治安は徐々に回復されました。

しかし、「京都守護職」が置かれた文久2年~慶応3年の5年間に多くの藩士が亡くなります。「会津藩殉教者墓地」には、亡くなられた237霊と「鳥羽・伏見の戦い」の戦死者115霊を祀っています。墓地には武士のみではなく、使役で仕えたと思われる苗字のない者や、婦人も同様に祀られており、「禁門の変」の戦死者は、一段高く積み上げられた台の上に三カ所に分けられ22霊祀られています。墓地の墓石をよく見てみると、会津藩松平家が神道であったので約七割ほどの人々が神霊として葬られています。明治40年には慰霊碑も建立されています。

さて、その後「京都守護職」はどうなったのでしょうか。

元治元年(1864年)に「京都所司代」に容保の実弟である桑名藩主「松平定敬(さだあき)」が任命され、兄弟で京の治安を守る形となります。「容保」は文久3年末に「一橋慶喜(一橋徳川家当主・将軍後見職)」・「島津久光」らとともに「朝廷参預」を命ぜられるなど、「孝明天皇」の信任も篤かったのですが、江戸の幕閣から警戒された「徳川慶喜」は将軍後見職を辞して朝廷から「禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮」という新職に任命され、松平容保・定敬兄弟と連携して京都に幕府から独立した権力を築きます。これを一橋・会津・桑名の頭文字をとって「一会桑」(もしくは橋会桑)といいます。

慶応3年(1867年)10月に将軍となっていた「徳川慶喜」は「大政奉還」で江戸幕府の支配を形式上終焉させました。しかし将軍職は辞せず、「京都守護職」も残されます。新政府の薩摩藩や長州藩にとって、京都に大きな兵力を擁する「一会桑」は大きな脅威だったので、これらを解体する必要がありました。同年12月9日(1868年1月3日)の「王政復古の大号令」によって摂関・将軍など旧来の職が廃止され、新政府が京都の支配権を確立したこともあって、「京都所司代」とともに、「京都守護職」は設置後6年をもって廃止されます。

この後、新政府である薩長と旧幕府軍との間の軋轢が積み重なり、とうとう「鳥羽・伏見の戦い」が勃発し、新政府軍と旧幕府軍の戦火が交えられ「戊辰戦争」が始まります。この時、新政府が朝敵として指名した人物の第一等は「徳川慶喜」、第二等は「松平容保」でした。ここにきて会津藩は朝敵とされて討伐の対象となってしまったのでした。

では、「会津藩殉教者墓地」に行ってみます。

「くろ谷さん」から行くのが本筋なんでしょうけど、職場から近い「真如堂」経由でいきました。バスで訪れるならば、「真如堂前」からが一番近いのですが、上り坂がとっても急なので、「岡崎神社前」から上って行った方が、足腰に対する負担は楽ですよ。

会津藩殉教者墓地 No2

「真如堂」境内の南から「金戒光明寺」に抜ける道です。

会津藩殉教者墓地 No3

その途中に「会津藩殉教者墓地」があります。

会津藩殉教者墓地 No4

入り口には立派な石票が建っています。

会津藩殉教者墓地 No5

おびただしい数のお墓があります。

会津藩殉教者墓地 No6

「会津墓地の由来」を刻んだ石盤です。

会津藩殉教者墓地 No7

遠く会津の地から京都にやってきて、京都の治安のために亡くなっていった人々です。

会津藩殉教者墓地 No8

子孫もなかなかこの遠い京都まで墓参に来ることは難しいでしょう。

会津藩殉教者墓地 No9

新選組に関する史跡巡りなどする人が訪れていることが多いようです。

会津藩殉教者墓地 No10

「会津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑」です。

近代へという歴史の大きな転換期には、京都でいろいろな事件が目まぐるしく起こりました。その陰では多くの人々が命を落としています。遠く異郷の地で亡くなっていった会津の人たちの心情を思い図ってお参りをしてくださいね。

アクセス

  • 京都市バス「真如堂前」下車、徒歩10分

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