日本近代医学発祥の地 罪人の尊い命のおかげ

 六角獄舎跡と医学の夜明け

江戸時代、六角通りに獄舎がありました。場所は千本通から少し東に行ったところです。

正式には「三条新地牢屋敷」と言ったそうです。明治時代には山科に移転して京都刑務所となっています。ここで、京都の医師、山脇東洋は日本で初めての「腑分け(人体解剖)」を行いました。

それまでは、漢方医の言う五臓六腑説が信じられていましたが、山脇東洋はヨハネス・ヴェスリングによって1641年に発刊された「解剖学の体系」を入手していたこともあり、西洋医学に感化され、自分の手で腑分けをしたいという思いが募ります。

宝暦4年(1754年)六角獄舎で5人の罪人が斬首刑に処せられます。時の京都所司代は若狭藩主酒井讃岐守忠用(ただもち)でしたが、斬首刑が行われたことを知った東洋の門人である若狭藩の藩医3人が、東洋に代わって刑屍体の腑分けを願い出ます。当時の常識では無理なことでしたが、所司代酒井忠用は深い理解を示して許可を出します。

東洋と3人の藩医たちは、日本で初めて人体の内部を直接観察することができました。東洋たちは西土手刑場で斬首刑に処せられた屈嘉という名の刑死人を解剖してその臓器を観察し、記録を取り絵図を描きました。このときの観察記録が、宝暦9年(1759年)に刊行された「蔵志(ぞうし)」で、日本で最初の人体解剖記録です。

この出来事は蘭学書の正確性を証明し、日本医学界に大きな影響を与えます。東洋の影響を受け、江戸で前野良沢、杉田玄白らがより正確性の高いオランダ医学書の翻訳に着手します。こうして「解体新書」が生まれることとなるのです。

日本近代医学発祥之碑 No2

マンションの敷地の入り口横に石碑が立っています。左隣には「平野国臣外数十名終焉趾」があります。

日本近代医学発祥之碑 No3

マンションの敷地に入ってすぐのところに「山脇東洋観臓之地」の碑があります。近代医学は刑死者の尊い命のおかげで発展することとなったのです。山脇東洋と子息、門人らが解剖した刑死体は、幕末までに14体に上りました。その人々は、誓願寺墓地に供養されています。

「平野国臣外数十名終焉趾」

日本近代医学発祥之碑 No4

さて、医学とは関係がないのですが、もう一つ六角獄舎に関する史実を紹介しましょう。

平野 国臣(ひらの くにおみ)は攘夷派志士として、西郷隆盛や真木和泉、清河八郎らと親交をもち、討幕論を広めた人です。文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかりますが寺田屋事件で失敗して投獄されます。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策しますが、八月十八日の政変で挫折してしまいます。次に大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で挙兵(生野の変)しますが、またも失敗に終わり捕えられます。身柄は六角獄舎に預けられました。

元治元年(1864年)、禁門の変で長州藩は京都御所を攻撃しますが撃退されます。長州人は撤退する時に京都の町に火を放ちます。このときに発生した火災(どんどん焼け)は京都中に広く延焼し六角獄舎にも火が及びそうになります。囚人が脱走して治安を乱すことを恐れた京都町奉行滝川具挙(たきがわともあき)は囚人の処刑を決断します。処分は未決状態ではあったのですが、国臣は他の30名以上の囚人とともに斬首されてしまいました。幕府としては国事犯を一気に処刑できて大変好都合だったようです。

失敗しても、失敗しても尊王攘夷の思いを胸に戦い続けた国臣はとても立派な日本男児だったことでしょう。

我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし 桜島山

国臣の詠んだ歌ですが胸の内にふつふつと湧き出る思いが伝わってきます。

日本近代医学発祥之碑 No5

日本近代医学発祥之碑 No6

日本近代医学発祥之碑 No7

実は斬首に使われた刀を洗う「首洗井」が埋め立てられたのですが、井げた部分だけは庭の一角に移設されています。最近、密かな心霊スポットになっています。

六角獄舎には色々な史実が隠されています。近くを通られた時にはちょっと寄ってみてください。

アクセス

  • 京都市バス「みぶ操車場前」下車、徒歩3分
  • 京都市バス「千本三条・朱雀立命館前」下車、徒歩5分

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