扇塚 扇発祥の地

発明大国?

今回は「扇塚」を紹介します。「扇」というと格調高いですが、一般的には「扇子(せんす)」ですね。清水寺や寺町辺りでも「京扇子」などのお土産物は人気があります。

この「扇子(扇)」、古来、中国から伝わったと思っている人が多いようですが、実は日本で発明されたものなのですよ。古代中国で「扇子」といえば「うちわ」の形状を指し、開閉式の「扇」というものは存在しませんでした。

そんな「扇」のルーツを見に行きます。

扇塚 No2

「鴨川」に架かる「五条大橋」の西詰には「牛若丸と弁慶」の石像があります。以前、このBlogでも紹介しましたね。今回尋ねる「扇塚」は「五条大橋」の西詰なんですけど、「五条通り」の北側の歩道わきにあるので、南側にいる私は今から五条通を渡ります。横断歩道を探すと、「河原町五条」の交差点に行くか、「鴨川」を渡って「川端五条」に行かなければ「五条通り」を渡れません。私は「高瀬川」沿いに北上してきたので、仕方なく「河原町五条」の交差点までう回しましたよ。

扇塚 No3

ま、ええんですけどね。と、ぶちぶち言いながら北側の歩道を橋の袂まで歩きます。

扇塚 No4

やってきました。「扇塚」です。周りの植栽がきれいに手入れされた直後のようですっきりとしていますね。

扇塚 No5

「扇塚」の由緒書きです。

扇塚の記

扇は平安時代の初期この地に初めて
つくられたものである ここ五條大橋
の畔は時宗御影堂の遺趾であり平
敦盛没後その室本寺祐寛上人によつ
て得度し蓮華院尼と称し寺僧と共に
扇を作ったと言い伝えられている
この由緒により扇工この地に集り永
く扇の名産地として広く海外にまで
も宣伝されるように至った いまこの由
来を記してこれを顕彰する
昭和三十五年三月十五日
京都市長 高山義三

と記されています。

扇塚 No6

「扇塚」です。なんとシンプルな石碑でしょうか。

昔ここには、「新善光寺(しんぜんこうじ)」というお寺がありました。「御影堂(みえどう)」「五条御影堂」とも呼ばれていたそうです。(今でも御影堂町、御影堂前町の地名が残っています。)

天長元年(824年)第52代・嵯峨天皇皇后の「橘嘉智子(檀林皇后)」が、「空海」を開山として創建しました。由緒正しいお寺ですね。長野の「善光寺」を模した本尊を安置していたので「新善光寺」と呼ばれましたが、当初は真言宗で高野山に属していました。後に「嵯峨天皇」の御影を安置したため、一般には「御影堂」と呼ばれました。

その後、「六条左女牛」や「新町通五条」に移ったとの言い伝えがありますが、天正15年(1587年)「豊臣秀吉」の都市改造により、五条大橋の袂である現在地の「御影堂町」に移ります。鎌倉時代以降は「時宗」となり、「一遍」が中興して以来「念仏道場」となり、時宗十二派の中の「御影堂派」の別格本山となります。

明治期に境内から、現在の「御影堂町」が興り、境内には「御影堂扇」を折って業とする家が数軒あり名物となります。

昭和20年(1945年)太平洋戦争中、「五条通り」の拡張の建物疎開に伴って、この地より現在の滋賀県長浜市に移転しました。

さて、この「新善光寺(御影堂)」と扇の接点ですが、由緒書きにあるように、平安時代、「平敦盛」の室が、17歳という若さで「一ノ谷の戦い」において亡くなった夫の菩提を弔うために、「蓮華院尼」と称して五条西詰にあった「平時宗御影堂」に出家し、寺の僧と共に扇子を作った事に始まるようです。扇は「阿古女扇(あこめおうぎ)」と呼ばれ、女性が正装の際に手に持つ扇だったそうです。

扇塚 No7

背後の「五条大橋」と東山三十六峰。秋の空。盛夏が過ぎて何かもの悲しさを感じますね。

扇塚 No8

近くに彼岸花が咲いていました。最近は田舎でも減っているのに、珍しいですね。

扇塚 No9

上から見ると、けっこうスカスカな花なんですよ。

扇塚 No10

赤は目立ちますね。昔は田んぼの畦が彼岸花で真っ赤っかになってたんですけどねぇ。

扇塚 No11

横を流れる「高瀬川」に降りてみました。

扇塚 No12

細い生活道路が続いています。

扇塚 No13

白い彼岸花を見つけました。もしかしたら彼岸花ではないのかもしれませんけど。花弁にけっこう肉厚があります。

秋空とともに、彼岸花も何かもの悲しさを感じさせます。「平敦盛」の17年の人生は輝いた人生だったのでしょうか。満足して死んで行ったのでしょうか。彼の室も諸行無常をひしひしと感じたことでしょう。

京都には、史跡旧跡に加えて石碑やモニュメントなどが、いろいろな人の人生を語り継いでいます。

アクセス

  • 京都市バス「河原町五条」下車、徒歩2分

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする