教諭所跡(宣教館跡) 庶民教育

誤解

先日、三条通りの「石灯籠型公衆電話」というのを紹介しましたが、そのすぐ東側にも旧跡があります。ありますと言っても駒札しか残ってませんけど...

教諭所跡 No2

三条通りの東洞院交差点です。西を向いてます。右手のでっかいビルが「NTT京都支店」です。ビルの一階部分が歩道際まで張り出していますよね。その張り出しの向こう側に「石灯籠型公衆電話」があります。

教諭所跡 No4

でね、その「張り出し部分」の東側が今回の訪問場所。上の画像です。ちんまりと駒札がありますね。

教諭所跡 No3

しかし、でっかいビルでしょ。駒札が霞んでしまいます。よく見ると、こっち側にも公衆電話。無駄とは言いませんが、これを見てしまうと「石灯籠型公衆電話」の方は、あまり実用的ではなく、モニュメントに近いようなものだとわかりますね。ま、いいですけど...

教諭所跡 No5

で、問題の、霞んでしまった、「教諭所跡」の駒札です。

教諭所(宣教館)跡

幕末、京都の庶民教育機関であった教諭所は、もと、皆川淇園(みながわきえん)門下の北小路梅荘(きたこうじばいそう)が計画し、天保四年(一八三三)許可されて室町丸太町下るの町家に開校した数年後衰退し中絶したが、天保八年(一八三七)の飢饉に経済活動に従事した心学講社(しんがくこうしゃ)の援助を得て翌九年七月東洞院三条下る住心院地内に新築、開講された。

教諭所の教育運動の特徴は経書講釈や心学道話の授業のほかに飢民救助などの社会事業に積極的に参加したこととされている。

元治元年7月の蛤御門(はまぐりごもん)の戦いで消失したが、翌二年二月、東洞院三条西北角の統治に再建された。明治二年(一八六九)二月、下京四番組小学校となり、教諭所は消滅した。

京都市

と、書かれています。

ああ、そうなんですか。「宣教館跡」とあるので、キリスト教関連の「宣教所」だと思っていましたよ。なんでも、開講時には豪商らからの基金積立が400両にも達し、当時の「京都所司代」であった「間部詮勝」は、「宣教館」の自筆額を与えて激励したとのことで、庶民教育に熱心だった様子がうかがえます。

そういえば、「先生」のことを「教諭」って言いますよね。そこから考えれば「教諭 所」なのですから、教育の場所(広義の学校)というのもうなづけます。「宣教」の方も、多くは宗教に関する「布教」に近い使われ方でしょうが、宗教だけにかかわらず「思想」を広める活動ととらえれば、江戸時代の教育の主流であった「儒学」や「国学」を教えるということは「宣教」と呼ばれて当然なんですね。

現在の日本では、小中学校は義務教育となり、多くの若者が大学教育まで受けるようになっています。若い時に十分な教育を享受できなかった人が、社会人になってから「やっぱり勉強したい」と思った時に、よい教育が受けられる世の中になると良いですね。

アクセス

  • 京都市バス「烏丸御池」下車、徒歩5分。

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