弘文院址 和気広世の大学別曹

官僚育成の地

今日は、京都市内に用事があって出かけました。JR嵯峨野線「二条駅」で降りて、御池通りを歩いたのですが、その時に見てきた「弘文院址」の紹介です。

「址」なので、何もありません。石碑だけです。駒札もないのでちょっと寂しいですね。Webで情報を探すと、露天の駐車場の入り口に立っているのですが、現在は建物が建っており、少し雰囲気が違います。

とりあえず行ってみましょうか。

JR嵯峨野線「二条駅」のホームの屋根です。この辺りのJR嵯峨野線は高架の上を走っており、当然「二条駅」も高架の上です。で、私が立っているのが「御池通り」です。御池通りはここで分断されていて、駅の北側を迂回する形で、駅の向こう側に続いています。今見ているのは東側の蕗ロータリーです。

さて、今見た「二条駅」の反対側(東)の方に歩いていきます。11時前なんですけど、今一瞬交通が途絶えましたね。

普段はひっきりなしに車が走ってます。ま、日中はこんな感じですよ。

ポチポチと歩いていると、昭和レトロな建物が...昔はこういう建物が多かったんですよね。

で、よそ見ばかりしてると、行き過ぎてしまいました。

これ、今回の主人公「此附近 弘文院址」の石票です。

「弘文院」というのは「和気清麻呂」の長男である「和気広世」が建てた、和気氏の「大学別曹」です。「日本後紀」によると、広世は「式部少輔」と「大学別当(大学頭)」を兼務し、父である「清麻呂」の遺志を継いで大学寮の南側にあった私邸を「弘文院」として、内外の経書数千巻を集め、また墾田40町を寄付して学問料を支給したと記されているそうです。

つまり、「広世」は「大学寮(式部省の官僚育成機関)」の長として公職を取り仕切るだけではなく、「大学寮」の付属機関として氏族運営で「大学別曹」を開設したということです。

ただし、「弘文院」の設立時期については史料が残っておらず、西暦800年頃としかわからないそうです。

石碑の西側の面うまく写真が撮れませんでしたが「大正六年三月建之   京都市教育会」と刻まれていました。

「弘文院」は他の大学別曹よりも早く設立されたようですが、「広世」の没後「和気氏」そのものがに振るわなかったので、「弘文院」も衰微し廃絶してしまいました。「菅家文章」に仁和元年(885年)「菅原道真」公が「弘文院」を訪問した時に詠んだとされる漢詩が残されているので、そのころまでの80年ほどは継続していたようです。

当時、国の行く末を憂いて多くの若者が良き官僚を目指して勉学に励んだ場所です。1100年前の平安時代に施設は消滅してしまいましたが、この土地にはその後1100年の間に色々なドラマがあったことでしょう。現在は石碑が建てられ、人々の静かな暮らしが営まれています。

アクセス

  • 京都市バス「二条駅前」下車、徒歩3分

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする