大村益次郎公遺址・桂小五郎寓居跡 木屋町界隈

 木屋町通りは石碑が多い

木屋町通りを歩いていると、あちこちに石碑があります。京都の歴史の中で、いろいろな事件が起こってきた場所なんですね。

大村益次郎・桂小五郎寓居 No2

今回の話題とは関係がないのですが、上の画像の石碑が「兵部大輔 大村益次郎 公遺址」のもう少し北側に建ってます。この石碑のことを調べていますが、あまり情報がありません。平成元年に遷移したとのことが出てくるのですが、どのようなものがどのような経緯で、どこへ遷移したのかわかりません。

まぁ、これは置いといて。本題に行きます。

兵部大輔 大村益次郎 公遺址

もともと医者であった村田蔵六(大村益次郎)は、長州藩で軍制改革を指導し、農民や町人の兵式訓練の必要を説きました。第2次長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、卓越した指揮で勝利をもたらします。新政府では、太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者となります。

大村益次郎・桂小五郎寓居 No3

益次郎は近代兵制の樹立に尽力しましたが,明治2年(1869年)9月4日、関西の軍事施設視察時に反対派浪士に襲われ,11月5日大阪で亡くなりました。この石碑は,益次郎が襲撃された宿所の跡を示すものです。

大村益次郎・桂小五郎寓居 No4

家と家の間にひっそりと建ってますね。「男は敷居を跨げば七人の敵あり」といいます。用心に越したことはないですね。

桂小五郎 幾松 寓居

「逃げの小五郎」と呼ばれる桂小五郎ですが、長州藩士時代,花街三本木の芸妓「幾松」と恋仲となり,新選組に追われながらも幾松に助けられながら、この地に住んでいました。

大村益次郎・桂小五郎寓居 No5

幾松は維新後、木戸孝允公夫人「松子」となります。明治10年(1877年)孝允が亡くなると、松子は剃髪して翠香院と号し京都に住み,明治19年(1886年)44歳で没しました。

大村益次郎・桂小五郎寓居 No6

現在は、料理旅館の「幾松」さんとなってます。「幾松の部屋」には、今でも抜け穴などが残されているそうです。

木屋町通りは、幕末から明治維新にかけての事件が色々とあったところで、史跡がいっぱいあります。飲み屋街なので、夜はあまり情緒がありませんが、昼間の散策にはなかなか良いところです。

アクセス

  • 京都市バス「京都市役所前」下車、徒歩5分
  • 京都市営地下鉄「京都市役所前」下車、徒歩5分

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