大峰寺跡 今日は開いてました

大峰野

このBlogでも何回も登場している陰陽師「安倍晴明」が近くに住んでいたといわれる「一条戻橋」の東側は、昔から「大峰野(おおみねの)」と呼ばれていました。その「大峰野」には平安時代に「大峰寺」と呼ばれるお寺がありました。

「大峰寺」は大和国吉野の「大峰山」から名前をとったといわれる修験者の道場だったそうです。寺域も広く当時は多くの修験者で賑わい、いくつかの坊宿も建てられていたとのことです。

その後は徐々に衰退、荒廃し、現在はお寺も残っていないのですが、寺の跡と石塔が残っています。時々前を通るのですが、門が閉められていることが多く中に入れませんでした。今回通った時、幸いなことに門が開けられていたので、お参りがてら中を拝見しました。

現在は、細い通りである「一条通り」ですが、平安時代は「一条大路」といって、都の一番北の通りで、割合と往来の多い、大きな通りだったそうです。そして「一条戻橋」を渡ると都の外に出るということで、特別の意味がありました。

当時、洛中で亡くなった人は「一条戻橋」を渡って洛外に埋葬されるというならわしでしたので、この橋で隔てられていたものは、物理的な「洛中洛外」の分離というよりも「あの世とこの世」の境になる心理的な要素の方が大きかったと思われます。

その「一条戻橋」の東側、一条通りを歩いて「西洞院通り」で北に向かいます。

大峰寺跡 No2

「一条通り」も細いですが、まぁ「西洞院通り」も細いですわ。

大峰寺跡 No3

この辺りは「元真如堂町」と言います。「応仁の乱」の兵火で荒廃した「真如堂」は京都を転々としました。その名残の町名です。

大峰寺跡 No4

もう少し北に歩くと、「大峰図子町」に入り、すぐに「大峰寺跡」につきます。「大峰図子町」というのも「大峰野」や「大峰寺」の名残でしょうね。

大峰寺跡 No5

「大峰寺跡」は、家と家の間、ホントに家一軒分の間口です。

大峰寺跡 No6

細長い敷地の奥にお堂が見えますね。

大峰寺跡 No7

横には立派な駒札が建てられています。

大峰寺跡 No8

戸口が解放されていますので、ちょっとお邪魔してみます。私が通るときはいつも閉められて施錠されていることが多いのですが、今回はラッキーなことに開錠されていましたので、この機会のあやかってお参りさせていただきました。

大峰寺跡 No9

地元の自治会が管理されているのでしょうか。倉庫もきれいでゴミ箱にもゴミ屑一つありません。

大峰寺跡 No10

立派なお堂です。中に石塔があるそうです。

「大峰寺跡」の石塔は、「役小角(えんのおづぬ:修験道の開祖、役行者とも言われる)」の塚、又は、その法孫である安土桃山時代の日蓮宗の僧「日円(にちえん)」の塚ともいわれています。また、一説には「三条天皇」の中宮「藤原妍子(ふじわらのけんし)」が、万寿4年(1027年)9月に没し、当寺の前野(まえの)で火葬されたことから、その供養のため建てられた火葬塚とも伝えられています。

大峰寺跡 No16

「大峰殿」と書かれています。昔の右から左への書き方ですが、なんかちょっと字体が庶民的な感じですよ。

大峰寺跡 No15

「金襴」で中は見られませんが、この中には駒札に出てくる石塔があるものと思われます。石塔は、花崗岩製で高さ2m余りあるとのことなので、お堂の天井ぎりぎりまでありそうですよ。

大峰寺跡 No11

お堂の後ろにはお社が沈座しています。

大峰寺跡 No12

献花されていて、きれいに掃除がなされています。

大峰寺跡 No13

反対側にもお社があります。

大峰寺跡 No14

こちらもよくお手入れされていますね。

大峰寺跡 No17

さて、お参りもできてすっきりしたので退散します。

大峰寺跡 No18

「西洞院通り」を北上して次の目的地に向かいます。

小さな史跡や旧跡は、管理の都合上、閉められていて拝観できないことがしばしばあります。でも、今日のように、たまたま開いていたというのは、なにがしかのご縁があったということで、導かれていたのでしょうね。ありがたいです。

アクセス

  • 京都市バス「」下車、徒歩分

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする