小沢蘆庵の墓 風光明媚

久々に 何かに惹かれる感覚が...

以前、通勤でいつも見ている石碑をまじまじと見に行ったことがありました。その石碑には「小沢蘆庵宅跡」と刻まれていて、江戸時代中期の国学者「小沢蘆庵」が晩年住んでおり、その地で亡くなったとWebにありました。

で、Webの記事によると、北白川に「小沢蘆庵」の墓があるとか。いつかは行ってみようと思っていたのですが、GoogleMapの改変時に「小沢蘆庵」の墓は消滅してしまい、最近は意識に上ることがありませんでした。

ところが、ひょんなことから「小沢蘆庵」の墓に導かれたので報告します。(導かれたといっても、神がかりとかオカルトではないですよ。)

「小沢蘆庵宅跡・蒲生君平先生仮寓御趾」

私の日常風景 毎日、通勤の市バスの窓から眺めている石票があるので、写真を撮りに行きます。 場所は「岡崎道(おかざきみち)」と「丸太町...

11月の半ばに比叡山に登りました。その時は、いつも登っている「京都一周トレイル」を使ったのですが、途中から「比叡アルプス」の方に道を変更しました。

その「京都一周トレイル」の入り口にて「小沢蘆庵」の墓に遭遇しました。

小沢蘆庵の墓 No2

「京都一周トレイル」の東山コースでは、「哲学の道」から住宅街を通って北白川の「日本バプテスト病」の横から山に入ります。上の画像は通称「志賀越え道」から「日本バプテスト病院」に曲がるところです。

小沢蘆庵の墓 No3

左に曲がるとすぐに病院の建物が見えますが、「京都一周トレイル」は病院の右側にある駐車場の方に進みます。

小沢蘆庵の墓 No4

11月の半ばですが、少し紅葉しかけていますね。

小沢蘆庵の墓 No5

11月末が楽しみです。

小沢蘆庵の墓 No6

さて、「日本バプテスト病院」の横をどんどん進んでいくと、いきなり道が細くなります。細い道が「京都一周トレイル」です。

小沢蘆庵の墓 No7

いつもはすぐ先にある「大山祇神社」で山の装備に着替えるのですが、その手前にある「札」に心惹かれるものがありました。なにか「展望台」と書かれており、京都市内が見渡せるようです。

いつもは目の前に山(比叡山)があるので、そっちばかりに気が取られて、周りのことにはあんまり気が回らないのですが、その日は ふと気になって、少し時間が早いのをいいことに寄り道してみることにしましたよ。

小沢蘆庵の墓 No8

少し戻るようにわき道を上がっていきます。

小沢蘆庵の墓 No10

と、いきなりアスファルトの道に出てしまいました。そうか、車が上がっていくんだし、展望のいいところもあるんだな、と妙に感心して、行くか行くまいかと悩んだのですが、ここでまた ふと新たな看板に目が行きました。

小沢蘆庵の墓 No11

なんじゃこれ?

小沢蘆庵の墓 No12

なんか、手書きで書かれている小さな看板であって、近くを通っていてもなかなか目が行かないような感じです。

が、よく見ると、「小沢蘆庵」の文字が...そういえば昔GoogleMapのバプテスト病院の近くに「小沢蘆庵の墓」が載ってたような...

心性寺禅跡

明治のはじめ頃までは、現在のバプテスト病院の所に一宇の御堂があった。
それが雲居山心性禅寺で、この寺は今から二百五十五年程前の、宝暦九年、(一七五九)に禅圭という弟子が師の宝厳禅尼の遺志をついで、独力建立したものである。この僧は鷹ケ峰源光庵五世卍海和尚の弟子であった。
元来この地は寛永五年(一六二八)に西加茂にあった日蓮宗の心性禅寺が、この地に移され、堂の東には鐘楼、塔頭あり(禅宗の寺)末寺が六軒もあって栄えたが建立後四十年もたたない寛文六年(一六六六)幕府の宗停止のふれがあり取り壊された。
この跡は寺号だけが残って九十四年間荒野原となっていた。
この地を 照高院家より譲り受けた禅圭は、宝厳禅尼亡き後も托鉢する等並々ない辛苦のすえ、やっと本堂、蔵裏を建て、井戸やひょうたん池まで掘った。
しかし地元とのつながりがなかったため経済的に窮迫し、明治の世には無住職となり、明治六年長谷川知事扱いにより廃墟となった。この地は市内が一望できる風光明媚な景勝の地で、歌人小沢蘆庵は殊のほかこの寺を愛し、太秦の幽居から岡崎広道に移った寛政四年(一七九二)以降しばしば状を曳いたのである。
蘆庵が数多くの白川心性寺の歌を詠んでいるように生前から墓地をここと決めていた、蘆庵が享和元年(一八〇一)岡崎図南亭で亡くなるや、心性寺に葬られたのである。この墓地が絶景の地であったことは先の病院増築に際し、門人田山敬儀(ユキノリ)の墓誌が発掘せられ、それに『蘆庵翁裏側に葬る』と刻まれていたことによって確認された。(小沢蘆庵墓)の五文字は光格天皇(御生母蓮上院)の皇兄妙法院宮眞仁法親王(御生母陽乗院)の筆である。この宮は蘆庵の高弟である、小川布淑(ノブヨシ)前波黙軒 田山敬儀 小野勝義と共に蘆庵門下四天王であった。またこの心性寺へ蘆庵を心の師とした蓮月が富岡鉄斎を伴って一時世を避けた事は有名な話である。
由緒ある寺のその後の行方は、一件の書類と本尊釈迦牟尼仏の坐像だけが鷹ヶ峰源光庵に合附されていることがわかった。
平成二十七年十二月 吉日 北白川愛郷会

これは行ってみなければ...

小沢蘆庵の墓 No9

ちゅうことで、看板の上の方にある小径に入ります。

小沢蘆庵の墓 No13

と、いきなりお墓が現れました。

小沢蘆庵の墓 No14

あった!

小沢蘆庵の墓 No15

まさしく「小沢蘆庵」の墓です。

小沢蘆庵の墓 No16

「田山敬儀」の墓誌でしょうか。「田山」の字が見えます。

ひょんなことから、以前記事にした「小沢蘆庵」のお墓に巡り合えました。私は詩歌に疎いので「小沢蘆庵」がどれほどの偉人なのかはよく分かりませんが、気に入った風光明媚な土地にあこがれそこに埋葬されることを望み、その思いが成就された彼をうらやましく思います。今も蘆庵はこの地で京都の変貌を目の当たりにして歌を詠んでいることでしょう。

さて、私は私の大好きな比叡山に登ることとしましょうか。

アクセス

  • 京都市バス「北白川仕伏町」下車、徒歩7分

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コメント

  1. マルソー・ローレンス より:

    こんばんは

     昨年12月のご投稿ですが、たまたまこの近くで暮らしております。きょうは、御影通りのいき泊まりのところを通りましたら、小沢蘆庵の事が書かれている標識が見つかりました。明日、バプテスト病院の横の道をジョギングして上がっていきます。あれが等ございます。

    • Jun@Kyoto より:

      マルソー・ローレンス さん
      はじめまして。私のBlogを読んでくださってありがとうございます。
      御蔭通と志賀越道の交差点にも石碑がありますね。
      小さくてわかりにくい石票ですけど、よく気づかれましたね。
      現代の日本人で小沢蘆庵を知っている人はなかなかいませんが、埋葬地を示す石票があるということは
      当時は彼のことを慕ってお墓参りをする人や門人が多かったということでしょう。
      蘆庵の墓から見る景色も素晴らしいですが、もう少し山を登った「瓜生山」から見る景色もとてもきれいですよ。

          Jun@Kyoto