坂上田村麻呂墓(栗栖野) 埋葬地はどこ?

 征夷大将軍

日本の歴史の中では必ず習う人ですね。遠く蝦夷地を平定した武人で、百済系渡来氏族である漢氏の一族です。田村麻呂は佛教の信仰も深く、清水寺を創建したことでも有名です。現代の京都観光の立役者でもありますね。

「坂上田村麻呂」は弘仁2年(811年)に54歳で亡くなり、嵯峨天皇の勅によって甲冑・剣や弓矢をつけた姿で棺におさめられ、平安京に向かって立ったまま葬られたとのことです。

粟田の別業(東山区粟田口)で亡くなり、宇治郡栗栖村の「馬背坂(栗栖野丘陵)」で壮大な葬儀が営まれたのですが、どこに埋葬されたのでしょうか。

1.今回訪れた「坂上田村麻呂の墓(将軍塚)」来栖野に埋葬された.

2.「西野山古墓(こぼ)」(山科区)清水寺から南東約2キロの山科盆地西部.

3.「将軍塚」(東山区)東山パークウェーにある方.

と諸説があります。

今回は、1.の山科区来栖野にある「坂上田村麻呂墓」を訪れました。

坂上田村麻呂墓 No2

昔からある「醍醐道」を南下していくと、来栖野に入り口があります。「醍醐道」は東山区の今熊野から東山を超えて山科の醍醐まで続く旧街道です。

坂上田村麻呂墓 No3

坂を上がっていくと見えてきましたよ。ひっそりと静かです。横に児童公園があり、子供たちの遊ぶ声が聞こえてきます。

坂上田村麻呂墓 No4

「贈従二位坂上将軍之墓」の石碑です。明治28年(1895年)「平安遷都1100年祭」に際して、墓の修復に伴い立てられました。

坂上田村麻呂墓 No5

少し傾いてますね。そろそろ修正しないと倒れそうですよ。

坂上田村麻呂墓 No6

京都市の説明書きです。「甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺に納められ、平安京にむかって立ったまま葬られた。」とありますから、死んでもなお平安京の守護神とされて祀られたわけで、後に国家の危険が起こったときには塚の中で大きな音がしたといわれています。これを「將軍塚鳴動」というそうです。

坂上田村麻呂墓 No7

越えられないこともないのですが、鎖がしてあるのでその外側から撮影しました。

坂上田村麻呂墓 No8

「平安遷都1100年祭」で整備される前は小円墳があり、「花木(はなき)塚」とも呼ばれていたそうです。

坂上田村麻呂墓 No9

さて、ここが本当に「坂上田村麻呂」の墓なのでしょうか?

いろいろな記事を読むと、私には上記2.の「西野山古墓」がそうではないかと思われて仕方がないのですけどねぇ。いまでも、ここが「坂上田村麻呂」の公墓とされています。

もし、「坂上田村麻呂」の墓でないにしても、「中臣遺跡」に位置しており中臣氏の有力者の墓であることは間違いがないようです。

アクセス

  • 京阪バス「来栖野」下車、徒歩2分

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする