藤原定家京極邸址 お土産探そう

 平安京の東の端、東京極大路

昔、平安京の東の端は「東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)」という通りでした。「大路」と言うぐらいですので、とても大きな通りでした。側溝なども入れて10丈あったということですので、現代で言うと約30m。道幅の広さがわかると思います。

この「東京極大路」の東側に沿って、「東京極川」が一条大路から九条大路まで南流し、二条大路以北を「中川」と呼んでました。この「東京極川」は「賀茂川」からの分水であり、賀茂川から分かれたところからは「今出川」と呼ばれていました。「上御霊神社」や「相国寺」の中を流れていたのですが、大正時代に京都市電の軌道敷拡幅などで、地下の暗渠となっていまでは見ることができません。「今出川通り」と、通りの名前に残っているぐらいです。

この「東京極大路」は、天正18年(1590年)豊臣秀吉が「寺社整理」と称して、洛中に散在していた寺院をこの通り沿いに集め「寺町通り」と改名されます。

「寺町通り」は「三条通り」以南が「東京極大路」の位置をほぼ踏襲しており、三条通以北では、通りの位置がそれまでの東京極大路より東に移されたと考えられます。「寺町通り」は三条通りのところでずれています。寺町通りを四条から上がってくると三条通りのところのどん突きは「かに道楽」です。

では寺町通りに行ってみます。

藤原定家京極邸址 No2

上の画像は、寺町二条の角に立って北の方を見ています。私は、向こうの方から、下って歩いてきました。

藤原定家京極邸址 No3

「寺町二条」の交差点です。「寺町通り」を下ってきた車は、強制的に左折して「二条通り」に入ります。「二条通り」よりも南側は一方通行です。

大正14年(1925年)に「梶井基次郎」が発表した小説『檸檬』は、寺町通を舞台に描かれているのですが、主人公が檸檬を買った店「八百卯」が二条通との交差点の南東角にありました。残念ながら、「八百卯」は平成17年(2005年)に閉店しています。上の画像では、ちょうどビルが建っているところですかね。

藤原定家京極邸址 No4

「寺町通り」は「二条通り」よりも南側で極端に狭くなっています。朝早い時間なので、まだ開いていないお店が多いです。

藤原定家京極邸址 No5

そんな「寺町二条」の交差点から少し上がったところに、「藤原定家」が住んでいた「京極邸」がありました。

藤原定家京極邸址 No6

藤原定家の邸宅は、この「東京極大路」にあったので「京極邸」と呼ばれました。また、定家自身も邸地より「京極殿」とか「京極中納言」と呼ばれました。

日本の代表的な歌道の宗匠である藤原定家は、ご存知のように『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』と2つの勅撰集を撰じ、また、「宇都宮頼綱」に依頼され「小倉百人一首」を撰じました。

「小倉百人一首」の中で藤原定家は

来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

藤原定家

と詠んでいます。

定家は、美への執念は人一倍強く、これは晩年まで衰えることがなかったそうです。しかし、たぐいまれなる強情な性格で、他人の言葉を聞き入れないという面もあったそうです。若い頃から病弱で、冬になると毎年のように咳病や風病に悩まされ、写経や書写を通して持病の不快感を克服していました。そして、さまざまな書物を書写した結果、多くの平安文学が「定家本」として後世に残りました。

定家の住んでいた「東京極大路」は「寺町通り」となり、時代は変わりましたが、お寺がたくさん並んでいて、とても京都らしい通りです。一品の老舗がいろいろあるので、気の利いた「京都土産」を探すにはとても良い通りです。「藤原定家京極邸址」の石碑があるのは、「京都古梅園」という「墨」の専門店の軒先ですし、はす向かいには京都でも御遣い物によく使われるお茶の「一保堂茶舗 京都本店」があります。少し下がれば和菓子の「二條若狭屋」があります。

アクセス

  • 京都市バス「京都市役所前」下車、徒歩4分
  • 京都市営地下鉄「京都市役所前」下車、徒歩5分

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