佐久間象山・大村益次郎遭難之碑 近づけません

 木屋町界隈は暗殺のメッカ

【佐久間象山】

松代藩士で兵学者、朱子学者、思想家です。松代三山の一人。大砲の鋳造に成功し西洋砲術家としての名声を上げました。また蘭学を背景に、ガラスの製造や地震予知器の開発をしたと伝えられます。

元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説きました。当時の京都は尊皇攘夷派の志士が潜伏しており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動でした。しかも京都の街を移動する時に供も連れなかったそうです。案の定、7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺されてしまいます。享年54才でした。

【大村益次郎】

幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者です。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となりました。太政官制において軍務を統括した兵部省の初代大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者となります。

明治2年(1869年)、9月4日夕刻、三条木屋町の旅館で会食中、元長州藩士の団伸二郎、神代直人ら8人の刺客に襲われ重傷を負う。手術のための勅許を得るのに手間取り、手術後、敗血症により亡くなります。享年46才でした。

昔、NHKの大河ドラマで「花神」というのがあって、大村益次郎(村田蔵六)が取り上げられたことがありました。中村梅之助さんが役をされたのですが、残っている肖像画などを見ますと、いや~、ほんとに似てますね。ドラマの中では豆腐が好きで、湯豆腐ばっかり食べていたのが印象に残ってます。

佐久間象山・大村益次郎遭難之碑 No2

木屋町通りの御池から上がるとすぐのところにあります。二人の碑が並んでいます。

佐久間象山・大村益次郎遭難之碑 No3

でも近づけません。残念ながら。

佐久間象山・大村益次郎遭難之碑 No4

なんと、高瀬川の向こう岸です。向こう岸のどこかからは近づけるのかもしれませんけど、よくわかりません。

佐久間象山・大村益次郎遭難之碑 No5

佐久間象山の碑です。

佐久間象山・大村益次郎遭難之碑 No6

大村益次郎の碑です。

旅館や飲み屋街なんですけど、物騒なことですね。今はどうか知りませんが、私の若いころは、河原町寄りが安い店で、祇園に近づくほど高級になっていってましたよ。私は当然、河原町寄りばかりで、木屋町にも到達してなかったですけど。

幕末に関する史跡などがたくさんありますので、このあたりの散策は面白いですよ。

アクセス

  • 京都市バス「京都市役所前」下車、徒歩3分
  • 京都市営地下鉄「京都市役所前」下車、徒歩3分

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