壺井地蔵堂 現代にも続く遺志

地蔵尊 と 地蔵堂

以前、「壺井」と「壺井地蔵」を紹介しましたが、今回は「壺井地蔵」を紹介します。

よく似ていてややこしいですね。場所もすぐ近くです。同じ町内という感じの距離ですよ。

西大路太子道の北側に「西土手刑場趾」があります。その刑場で処刑される囚人たちが市内引き回しの末、斬首される前に立ち寄って末期の水をいただいたのが「壺井」です。

その壺井は、春日通りと太子道通りの交差点にあるのですが、「壺井地蔵堂」は、そこから太子道通りをもう少し西に行ったところにあります。

この太子道通りというのは、その名の通り「太子」が通った道です。「太子」というのはもちろん「聖徳太子」で、向かった先は太秦にある「広隆寺」です。現在は細い、微妙にくねくねと曲がった道なのですが、昔は丹波地方に続く幹線道路でした。人の往来も多く、にぎわった街道だったようです。

「壺井」は奈良時代の僧、行基がの野に湧く水を発見し、その水と薬を一緒に飲むと疫病に効いたことから霊験あらたかな井戸水として知れ渡り、長きにわたって庶民に愛された井戸でした。広隆寺参りや丹波に行く人々や馬などに利用された井戸でした。江戸時代にこの「壺井」から、ツボに収められたお地蔵さんが見つかったことから「壺井地蔵」と呼ばれて祀られたそうです。

この「壺井地蔵」と今回の「壺井地蔵堂」にある地蔵尊とは同じものでもなく、直接関係があるわけでもありません。

壺井地蔵堂 No2

「壺井地蔵」のすぐ近くにある住所表示です。「北壺井町」となっており、「壺井」が古くから存在していて町名になったことを表しています。

壺井地蔵堂 No3

本題の「壺井地蔵堂」ですが、民家の合間に長屋か納屋のような感じで立っています。もともとは、現在の太子道通りの北側にある「朱雀第八小学校」の敷地にあったのですが、建設に伴いこちらに移転されています。

壺井地蔵堂 No4

よく見ると確かに「地蔵堂」ですね。

壺井地蔵堂 No5

ご本尊の「壺井地蔵尊」です。

壺井地蔵堂 No6

「地蔵堂」の前には「壺井茶所」の石票があります。太子道は昔はにぎやかで人通りが多く、広隆寺参りの人たちや、丹波地方に行き来する人たちのための休憩所である「茶所」がたくさんありました。その「茶所」の名残の石票です。この建物はもともとは「茶所」となっていたようですね。

壺井地蔵堂 No7

敷地内には祠や石碑が建っています。

壺井地蔵堂 No8

「六十六部供養塔」です。六十六部とは法華経六十六部を写経し,これを日本全国の霊仏霊社に納経するために回国した僧のことであり、ここに六十六部清遊法師という僧が立ち寄り、壺井地蔵堂を中興したと伝えられています。

清遊法師は刑場に向かう囚人のために経文をあげ、供養塔を建てたそうです。

壺井地蔵堂 No9

「清遊法師(六十六部清遊)」の墓です。清遊法師は、堂主となってからも村のために尽力してとても感謝されたそうです。しかし子孫がなく、生前蓄財をして付近の土地からの収入を以って壷井地蔵尊の祭祀や自墓への燈明等を、地域の村方達に依託したのでした。

村のために尽力した清遊法師の遺言を受けた村方達は該当の土地を共有地としていたのですが、今では借地としての収入もあり、そのお金を清遊法師の遺志にそって社会のために活用しようと、村方の子孫である方々が、「一般財団法人 坪井清遊会」として、教育・医療・福祉などの社会貢献を目的に、各所に多額の寄付をされているそうです。

江戸時代の遺言を今の時代にも脈々と受け継いでいるということにもびっくりしますが、清遊法師もよほど徳が高く村のために尽力したのだと感心します。

アクセス

  • 京都市バス「西ノ京塚本町」下車、徒歩2分

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