因幡堂 平等寺

町民の信仰深い薬師如来

さて、今回は久々に京都に戻ってきました。大津坂本が長く続きましたけど「麒麟がくる」は少し置いといて、京都の真ん中にあるお寺を紹介します。

京都の真ん中というと、どのあたりを想像しますか? 現在の京都は南の方が開けてきたので、地理的には京都駅が真ん中あたりだという人もいますが(確かに地図を見るとそんな気もする...)、京都民としては、やっぱり「四条烏丸」が真ん中というイメージですね。なんせ昔は、京都駅が京都の南の端だったんですから。

で、その「四条烏丸」から南に下がっていったところにあるお寺です。お寺の名前は「平等寺」。「因幡堂」とか「因幡薬師」と言った方がお年寄りには良くわかるようです。最近はがん封じで有名になっているらしく、「がん封じの...」というと「あ、あそこか。」と返ってきます。

ま、行ってみましょう。

因幡堂_平等寺 No2

「烏丸通り」を下って行けばいいのですが、細い通りが好きな私は裏通りを下ります。今日はあまり人通りがありませんね。

因幡堂_平等寺 No3

ごそごそと歩いてあちこち見ながら「因幡堂」の南門に来ました。

因幡堂_平等寺 No4

「因幡薬師 平等寺」です。すぐ目の前が本堂です。

因幡堂_平等寺 No5

平等寺(因幡薬師)

長徳三年(九九七)、因幡(現在の鳥取県)国司。橘行平(たちばなゆきひら)が、任を終えて帰京の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津(がるつ)の海中から引き揚げ、安置しておいた薬師如来像が、行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保五年(一○○三)、行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられている。この霊験談は広く親しまれ、歴代天皇をはじめ一般庶民の深い信仰を受け、承安元年(一一七一)には高倉天皇により「平等寺」と命名された。なお、この寺の起こりは「因幡堂」縁起(東京国立博物館蔵)に」詳しく書かれている
堂舎は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初年(一八六八)に再建された現本堂には、度重なる火災にもかかわらず伝えられてきた本尊薬師如来立像が安置されている。この薬師如来立像は藤原時代の一木造りの優品で、重要文化財に指定されている。嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つに数えられ、ことのほか信仰されている。

「度重なる火災」と書かれているので調べてみると、記録に残っているだけで、1097年、1103年、1108年、1143年、1153年、1159年、1177年、1246年、1249年、1391年、1434年、一番最後には1864年、蛤御門の変で焼失しています。そのたびに再建はされているのですが、周辺4町のまたがるほど広かった境内は徐々に縮小されました。

それと、「橘行平」は高辻烏丸南東方一町の私邸の一部を改修し、薬師如来を安置して仏寺にしたのですが、この駒札では霊験ありがたいお話だけが書かれていますね。ですが、実はこの「橘行平」という人は、因幡の国ではあまり評判は良くなかったようです。因幡守になるのですが、前国司である「藤原惟憲」と「不動穀」のことで争いを起こしたり、国衙官人、農民より苛政(苛酷な政治)を訴えられたりしています。極めつけは豪族の「因幡千里」の殺害に関与して因幡守を解任されたとか。(薬師如来はかつて、因幡の豪族・因幡氏氏寺の薬師寺に祀られており、行平が「因幡千里」を殺害した後、京都へ持ち去ったという話もあります。)そんな人が、都では霊験あらたかだとかいうことで信仰が深まり、第66代「一条天皇」は、八つの支院を建立して勅願所にし、以後、歴代天皇は即位ごとに「薬師詣」を行い、勅使による御月参も行われたとか。第80代「高倉天皇」においては勅命によってり、「平等寺」と命名されし、歴代の天皇も厄年には勅使を派遣し、祈祷を受けたそうです。

ま、真実はどうなのかわかりませんが、ある一面だけでは人間は判断できませんね。

因幡堂_平等寺 No6

街中は人通りが少なかったのですが、ここには参拝の方々が次々とやってきています。山号は「福聚山」と言います。「因幡堂」は中世に「市のお堂」と呼ばれ、市が催され賑わいました。現在でも、毎月8日には境内で「手作り市」が開催されています。六角堂(頂法寺)や革堂(行願寺)と同じく「町堂」として人々の生活や文化の拠点、また自治活動の場として機能してきました。

幕末の1863年頃、新撰組初代筆頭局長の「芹沢鴨」ら数人が境内の見世物小屋で披露されていた虎の見世物が、人が入った縫いぐるみか本物の虎であるかどうかを確かめに来たそうです。芹沢が脇差を抜くと虎にほえられて「志士より怖い」と本物と認めたそうです。

因幡堂_平等寺 No7

正面に掲げられている扁額です。

因幡堂_平等寺 No8

まぶしいですよ。私は単純な人間なのでこういうのを見ると恐れおののいてしまいます。ヒカリモノには弱いですね。

因幡堂_平等寺 No9

最近、霊場めぐりやご朱印集めがはやってますね。多くの方々が神社仏閣に興味を持つのはいいことなのですが、やっぱり信仰心がないと本末転倒ですよね。

因幡堂_平等寺 No10

通常時ご本尊は非公開です。8月に公開されるそうです。

因幡堂_平等寺 No11

今から約130年前の鬼瓦です。鬼面ではなく経の巻と呼ばれる鬼瓦です。真ん中の模様はこのお寺の紋で菊の周りを橘が巻く図柄です。

「町堂」として人々が集うようになった「因幡堂」では室町時代から「能」、「猿楽」などの芸能が演じられました。室町幕府3代将軍「足利義満」の臨席で「世阿弥」も演じたと伝わります。そして狂言では「因幡堂」という名前の「因幡堂」を題材にしたものや、「鬼瓦」という「因幡堂」の鬼瓦を題材にしたものがあります。

因幡堂_平等寺 No12

「賓頭盧(びんずる)尊者」です。この他にもいろいろと見どころが多いのですが、興味を引いたのが、平安時代の「小督局(こごうのつぼね)」が愛用したという琴、硯箱、それから小督局の髪の毛で作ったとされる「光明真言(不空大灌頂光真言)」という織物があるそうです。「小督局」はこの寺を「平等寺」と名付けた「高倉天皇」の寵愛を受けた侍女で、「小督局」が天皇没後、御陵のある清閑寺に移って菩提を弔ったのですが、因幡堂の住職が清閑寺の住職も兼務した際に移されたものだそうです。非公開なのですが見てみたいですね。

因幡堂_平等寺 No13

南門の西に「観音堂」があります。

因幡堂_平等寺 No14

御詠歌が掲げられています。「梅鉢」の御紋が見えますね。菅公にゆかりがあるのでしょうか。

「因幡堂」は京都の中心部にありながら歴史が古くいろいろと興味をひかれるところです。近くに来られた時には参拝してみてください。そうそう、写真撮り忘れましたがインコのお守り、とってもかわいくて女性受けばっちりです。

アクセス

  • 京都市バス「烏丸松原」下車、徒歩3分

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする