蛇塚古墳 住宅街に突如石室

嵯峨野最後の前方後円墳

「古墳」といえば、一番に思い出すのが小学校の時に習った「仁徳天皇陵」です。「仁徳天皇陵」は堺市ですが、京都にも大きな古墳があります。京都で大きな古墳と言えばやはり「蛇塚古墳」でしょうね。「蛇塚古墳」も巨大な「前方後円墳」でした。

「蛇塚古墳」は巨大な「横穴式前方後円墳」で、もともとは全長75mもあったという全国的にも有数の規模の古墳です。しかし封土のあったところは、削られてしまって住宅街になってしまいました。

現在は巨大な石を積み上げた石室のみが残っています。その石室は長さが17.8mもあり、明日香の「石舞台古墳」に次ぐ大きさです。高さ・幅では「石舞台古墳」をしのぐ大きさがあります。大陸(新羅)から来た秦氏の首長の墓で、古墳時代後期の6世紀末頃に築造されたと考えられています。

この古墳の石室にはかつて蛇がいっぱい生息していたので「蛇塚古墳」と呼ばれていました。封土の部分も、住宅が建てられる前の明治頃までは竹藪だったそうです。昭和52年(1977年)に国指定史跡になりました。

では訪ねてみましょう。場所は右京区太秦面影町です。

「嵐電」の「帷子ノ辻」駅から南の方角に向かって、住宅街をくねくねと歩きます。さすがにこのあたりまでくると、中心部のような「碁盤の目」にはなってないですね。

蛇塚古墳 No2

「蛇塚古墳」は、住宅街を歩いていると、いきなり出現します。というか、古墳に向かって住宅が押し寄せてきたんですね。

蛇塚古墳 No3

「蛇塚古墳」のお隣はおうちです。「蛇塚古墳」として残っているのは、後円部の石室の部分のみです。

蛇塚古墳 No4

「フェンス」が張り巡らされていて、無断では入ることができません。国指定史跡ですからね。

蛇塚古墳 No5

石室の周りの草はきれいの刈り込まれています。

蛇塚古墳 No6

しかし、でっかい岩ですね。昔は「岩屋」とも呼ばれていたそうです。

蛇塚古墳 No7

この大きな岩は「保津川」から運ばれてきたと伝えられています。そう考えると、当時としてはすごい技術と富を持っていたんですね。

蛇塚古墳 No8

小山のような石室です。「石舞台古墳」よりも躍動的な勢いを感じさせる岩々です。

蛇塚古墳 No9

地震があったら崩れそうに思うんですけど、大丈夫なんでしょうかね。

蛇塚古墳 No10

手とカメラの影が移ってしまいましたが、「蛇塚古墳」の説明書きがあります。ちょうど太陽の光が斜めに差していて、どうしてもフェンスの影が入ってしまいます。

蛇塚古墳 No11

住宅街の真ん中とは思えないですね。

蛇塚古墳 No12

「史跡 蛇塚古墳」の石碑です。

蛇塚古墳 No13

羨道(玄室に向かう通路、入り口の部分)は破壊されて無くなっており、横穴の玄室(棺を納めた石室)しか残っていなません。天井石も失われてしまっています。石室の入り口部分は崩れないように補強がなされています。

蛇塚古墳 No14

棺があったと思われる部分です。一説には「秦河勝(かわかつ)」の墓ではないかともいわれていますが、実際に誰が埋葬されていたのかは不明です。

「蛇塚古墳」は太秦や嵯峨嵐山近辺で築造された最後の前方後円墳です。築造された当時にはもうすでに前方後円墳は築造されることが無かった様式なので、何か特別な事情があったようです。こういう歴史の流れから逸脱している事象にはとっても興味がひかれますし、ロマンを感じさせられます。

アクセス

  • 京都市バス「帷子ノ辻」下車、徒歩5分

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