此付近南蛮寺跡 永禄寺跡

珊太満利亜上人の寺(さんたまりあしょうにんのてら)

蛸薬師通りにある旧跡の碑です。「此付近南蛮寺跡」の石碑ですが、まさに、「南蛮寺」があったことを示しています。

ご存知のように「南蛮寺」は日本におけるキリスト教の布教所の俗称です。「切利支丹寺」「伴天連寺」とも呼ばれていました。京都における最初の「南蛮寺」は、永禄12年(1543年)に建立され,年号を寺号とし「永禄寺」と称しました。しかし一般には「南蛮寺」という固有名詞で称されるようになります。教会としての「南蛮寺」の正式名称は「被昇天の聖母教会」と呼ばれます。

イエズス会の宣教師オルガンティノが指揮を取った「南蛮寺」の建設に当たっては「高山ダリオ(図書:ずしょ)」をはじめとする畿内のキリシタン有力者の協力と寄進が寄せられ、当時の日本に建てられた教会堂の中でも最大級の規模となりました。

では、行ってみましょう。

此付近南蛮寺跡 No2

「此付近南蛮寺跡」の石碑は「蛸薬師通り」にあります。「室町通り」と「新町通り」の真ん中あたりなので、バス停で言えば「四条烏丸」でも「四条西洞院」でも、どちらから行ってもそれほど距離は変わりません。

実は「南蛮寺」があったのは「本能寺」のすぐ近くなんですよ。お隣といっていいほどの近さです。「本能寺の変」も目の当たりにできたと思います。

此付近南蛮寺跡 No3

「蛸薬師通り」の北側の並び、「和光株式会社」という看板の下にあります。駐輪場になってます。朝早い時間だったので自転車などはほとんどありませんでしたが、日中は駐輪しているでしょうし、陰になって見落とすかもしれませんね。

此付近南蛮寺跡 No4

「此付近南蛮寺跡」の石碑です。

此付近南蛮寺跡 No5

「此附近」に礼拝堂があったそうですが、この先、発掘調査などが行われると少し移動するかもしれませんね。

此付近南蛮寺跡 No6

「此付近南蛮寺跡」の駒札です。天正15年(1587年)には、九州征伐を終えた「豊臣秀吉」は「バテレン追放令(宣教師追放令)」を出して、キリスト教弾圧を始めます。この「南蛮寺」もその時に破壊されてしまい、その後復興されることはありませんでした。

また、「秀吉」です。京都では「秀吉」はあまり印象が良くありません。特に庶民にとっては天正の地割や寺の強制移転など、勝手なことばかりやっていたので、いまだに悪評高いです。私も小さいころは祖父母に「太閤はんの時には、あ~たら、こ~たら。」と昔話や言い伝えを聞かされたので、あまり良い印象を持っていません。ま、そんなことはどうでもいいですけど。

当時の日本はまだまだ野蛮な国であったので、弾圧といえばすぐに磔や火あぶりにしてしまいます。女・子供も容赦なく処刑してました。その弾圧をしのぶ石碑などがありますので、またそのうち紹介しましょう。

アクセス

  • 京都市バス「四条烏丸」下車、徒歩10分

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