梁川星巌邸跡碑 山紫水明の向かい側

記憶の片隅に

今日は「梁川星巌邸跡碑」を紹介します。

「梁川星巌(やながわせいがん)」って知ってますか?

当然、みなさんご存知ではないでしょう。ご存知だとおっしゃる方は「漢詩」に興味のある方か、よっぽど幕末の歴史の大好きな方と思われます。

当の私も全然知りません。

でも、「梁川星巌邸跡碑」の石票だけは、そこにあることをよく知ってました。学生時代にこの石票の横を毎日通っていたのです。「碑」があるな、とは思ってましたが、さしたる興味もわかず、毎日が過ぎていきました。そしてとうとう卒業を迎えて、その後は忘却の彼方でした。

で、先日「頼山陽山紫水明處」のことを書いたときに、「梁川星巌」という名前を見たのですが、それでも記憶は蘇ってこず、そういえばどっかで見たような名前やなぁ、とずっと思ってました。頭の中に残っている記憶や知識と、目の前にしている情報の関連性を紐づける能力が低下してますね。俗にいう「ピンとくる」という感覚が衰えてきているのでしょう。

なんと「頼山陽」と「梁川星巌」は鴨川を挟んで向かい側に住んでいたことになります。これは偶然の一致なんでしょうかね。

では「梁川星巌」について少し紐解いてみましょう。

「梁川星巌」は寛政元年(1789年)に美濃国安八郡曾根村(現:大垣市)の郷士の家に長男として生まれました。幼少のころから華渓(かけい)寺の太随(たいずい)和尚について
学問を学びました。星厳が12歳のときに両親が相次いで病死してしまいます。しかし向学心に燃える星巌は家督を弟に譲って、江戸に出て「山本北山(やまもとほくざん)」の奚疑塾(けいぎじゅく)に入門し儒学、詩文を学びました。文化14年(1817年)大垣に帰郷し私塾「梨花村舎」を開きます。その塾の子弟の中に、のちの妻となる、星巌とはまた従兄妹の「紅蘭(こうらん)」もいました。

文政2年(1819年)京都で「頼山陽」と出会い意気投合します。翌文政3年(1820年)には、弟子でもあった紅蘭と結婚します。この時星巌が32歳、紅蘭が17歳でした。何ともうらやましい限りです。しかし星巌は留守中に三体詩を暗誦することを命じて旅に出てしまいます。3年後、星巌が帰ってきたときには、紅蘭は三体詩の暗誦をやっただけではなく一首の詩を詠みました。

階前栽芍薬。堂後蒔當歸。
一花還一草。情緒兩依依。

きざはしの前には芍薬を植え、座敷のうしろには當歸をまきました(どちらも薬用植物だが、〈當歸〉は〈まさにかえるべし〉と訓読できるので、〈きっと帰ってくるだろう〉の意味がこめられている)。
花には私の姿をうつし、草には私の心を込めて。ああ、私の想いは、この花とこの草に離れたことはありませぬ。

Wikipediaより引用

なんとまあ、うらやましいことですね。3年間も放浪の旅に出た星巌をずっと思い続けていた紅蘭という女性はとてもすてきな女性だったのでしょう。そんなに星巌という男は魅力的だったのでしょうか。ちなみにWebに載っている星巌の肖像画は、ちょっと引いてしまうような風貌のおっさんです。

星巌の放浪癖はその後も続くのですが、これ以降は当時としては珍しく、妻の紅蘭を同伴して旅をするようになったそうです。

星巌は夫婦連れだって西国の旅に出て、多くの文人と交わりをもちます。44歳の時には江戸に出て、天保5年(1834年)に江戸神田お玉が池に住み、詩塾「玉池吟社(ぎょくちぎんしゃ)」を開き、漢詩人として名を大いに高めました。このころ佐久間象山や水戸の藤田東湖らと交わり国の将来について議論します。

弘化2年(1845年)には大垣に帰郷し、白鴎社(はくおうしゃ)の人々と詩会を催したり、小原鉄心(おはらてっしん)らと国事を談じたりもしました。

翌弘化3年(1846年)には梁川星巌は京都に移り住んでいます。「頼山陽」の住んだ「山紫水明処」の鴨川を挟んで川向かいの「鴨沂(おうき)水荘」(川端丸太町上ル東)に移り、「鴨沂小隠(おうきしょういん)」と呼びました。

星巌が交流を持ったのは、頼山陽や佐久間象山らのみならず、儒学者の「梅田雲浜(うんぴん)」、尊皇攘夷派僧の「月照」、思想家の「吉田松陰」、儒学者の「横井小楠」、軍人・政治家の「西郷隆盛」など、当時の尊王攘夷派や儒学者の名前が上がります。嘉永2年(1849年)のペリー来航以後は大っぴらに尊王攘夷を唱えだします。

当然、幕府から目を付けられることになるのですが、幕府の弾圧が厳しくなった安政5年(1858年)、星巌は京都で流行していたコレラに罹患し、東三本木の「老龍庵(ろうりゅうあん)」で亡くなりました。まさに「安政の大獄」の直前であったため、世間の人は星巌のことを「詩(死)に上手」と評したそうです。

ところが安政の大獄では妻の紅蘭が捉えられてしまいます。紅蘭は激しい拷問に半年間耐え、翌安政6年(1859年)釈放されました。紅蘭は星巌の遺稿を出版し、晩年は京都で私塾を開いています。

星巌夫妻の墓は、南禅寺の「天授庵」にあります。その横には横井小楠の墓もあります。

だらだらと長い文章ですみません。簡単に言うと幕末の尊王攘夷派漢詩人といったところでしょうか。

では行ってみましょう。

梁川星巌邸跡碑 No2

川端丸太町の交差点から北方向を望みます。だいぶんと風景は変わってしまいましたが、懐かしいにおいがします。

梁川星巌邸跡碑 No3

ありましたよ。昔はこの並びは普通の住宅だったと思います。マンションやパーキングになってますね。

梁川星巌邸跡碑 No4

「梁川星巌邸址」の石票です。石票の北面(画像でいうと左面)は写真が撮れませんが「大正五年五月建之 京都市教育会」とあります。

梁川星巌邸跡碑 No5

駒札があります。

梁川星巌邸跡碑 No6

星巌がなぜこの地を選んだのかはわかりませんが、やはり「頼山陽」と親交があったことから、この地を選んだのではないかと思います。そばに鴨川が流れ、比叡山の雄姿が見えるこの地はとてもゆったりした気持ちになれるところだすし、詩吟にはもってこいだったのでしょうね。星巌は生涯で約5000首の作詩を残しています。

ポツンと碑があるだけのところですが、鴨川の風がとても気持ちのいいところです。

アクセス

  • 京都市バス「丸太町京阪前」下車、徒歩1分

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする