太子道と紙屋川
太子道(たいしみち)という通りがあります。太子とは、その名の通り聖徳太子を指しています。洛中から、聖徳太子ゆかりの太秦広隆寺へ通じる道だったので、「太子道」と呼ばれています。
その太子道と春日通り(一時期、佐井通りと呼ばせようとしていたみたいですが、最近では、やっぱり春日通りと呼んでます。)の交差点に、桜の木があります。立派な桜で、毎年3月下旬か4月上旬にはきれいな花を咲かせています。
その桜の木のあるところが、名水「壺井」の場所です。正確に言うと、旧二条通りの方の太子道であって、新二条通りの太子道ではありません。
新二条通りが整備されるまでは、旧二条通りを太子道と呼んでましたが、新二条通りがきれいになってからはこちらを太子道と呼ぶことが多いです。
私は、新二条通の方の太子道の、西大路より東に入ったところに住んでました。学区が違ったので、西大路通よりも西側で遊ぶことは少なかったのですが、何か近寄りがたい雰囲気がありました。
このことは、後で述べます。
それと西大路太子道の交差点の下には紙屋川(かみやがわ)が流れています。なので西大路通りを北から南へ車で走ると、ずっと下りのはずが円町を超えたあたりから上りになって、太子道の交差点が坂の頂上となってます。そこで紙屋川を超えているんですね。私の父親は小さいころに紙屋川に下りて遊んだと話していました。
ちょうど紙屋川を超えるところです。こんもりと盛り上がっていますよね。左のビルとビルの間が旧二条通りです。
この交差点を手前方向に進むとすぐに「壺井」があります。
名水であった壺井
奈良時代の僧である行基は、諸国巡礼の際、この地での疫病流行の時に、たまたま野中に湧き出る霊水を見つけました。この霊水に薬を合わせて病人に飲ませると、たちまち病気が治ったということで、世間の信仰を受けました。これが壺井の始まりです。
壺井の前に由緒書きがありました。
周りは塀で囲まれており、古くはなっていますが、きれいに手入れがされてます。
昭和16年の石碑が建てられています。
階段を下りていくと中にはお地蔵さんが祀られています。夏の暑い日でしたが、中はひんやりとしています。
階段に横に「壺井」があります。江戸時代に医者でかつ歴史家であった黒川道祐が書いた「太秦村行記」には、壺井の井戸の中から掘り出された壺の中に、座した地蔵が納められており「壺井地蔵」と名付けられと書かれています。
今は枯れてしまっているのですが、昔は水が湧いていました。下水道工事で地下水脈の流れが変わって枯れてしまったようです。井戸の中は何かみずみずしい感じで今にも水が湧き出てきそうなほどでした。
もう一つの顔
これだけなら、疫病に霊験あらたかな京の名水で話が終わるのですが、実は壺井にはもう一つの顔があるのです。
一つの顔は、古くは太秦広隆寺への参拝客が通る道で、道行く人々に水を提供する名水としての顔でした。
もう一つの顔は…
紙屋川から西側は、洛外になっており、昔から獄舎や刑場が置かれたところでした。古くは平安京時代、一条二坊十四町、現在の西ノ京北円町付近に「右獄」がおかれました。「右獄」は、南は丸太町通の北側、西は西大路通を越えた西側、東は紙屋川の西側までにわたる広さがあったようです。
その後、変遷はありますが、江戸時代以降、京都の西の死刑場(御仕置場)は西土手刑場とされました。現在の西ノ京円町付近、西大路太子道の北にある共同墓地を含む西ノ京上合町の一部と中御門町の一部、西大路通を挟んだ紙屋川以西の中御門東町の一部にあったとみられています。
ここでは主に国事犯が処刑されていました。罪人は六角獄舎より出され、市中引き回しの後、西土手刑場で斬首されました。一条戻り橋では最後の小餅を与えられ、西土手刑場の西にあった壺井では末期の水を罪人に飲ませたというという記述が残っています。これがもう一つの名水「壺井」の顔です。
私は小さいころ、この地に刑場があるなんて知りませんでしたが、西大路通から西側には何かしら近寄りがたい雰囲気を感じていましたし、円町に買い物に行くときに西大路通り沿いの共同墓地の横を通るのですが、その辺りはいつ通っても違和感を感じるところでした。
奈良時代から続いた壺井ですが、残念ながら近年の都市化に伴い枯れてしまいました。末期の名水の役割も終えて、多くの罪人を見送ったお地蔵さんもほっとしていることでしょう。
アクセス
- 京都市バス「太子道」下車、徒歩1分